デジタル版「実験論語処世談」[52c](補遺) / 渋沢栄一

実験論語処世談 第九十四[九十三]回 実行の伴はぬ現代人
『実業之世界』第18巻第2号(実業之世界社, 1921.02)p.24-27

子曰。吾自衛反魯。然後楽正。雅頌各得其所[。]【子罕第九】
(子曰く。吾れ衛より魯に反り。然る後楽正しく。雅頌各々其所を得たり。)
 魯の哀公十一年の冬に、孔子は衛より其の郷国である魯に帰られたが、其の時、孔子は丁度六十八歳であつた、之れより先き、孔子は周の天下の政治を再興して、大に仁政を布き度いといふ政治的抱負を懐かれ、魯、斉、鄭、衛等に歴遊されたのであるが、此の時、世衰へて先王の道行はれず、徒らに攻伐をのみ事として、権を争ふに日も亦是れ足らざる有様であつた。恰かも、欧洲の天地が、戦前英、仏、独、露、墺[、]伊等の諸大国を始めバルカンの小邦国に至るまで、互に権を競ひたるにも比すべく、其の結果、未曾有の大戦乱は惹起されたのである。
 孔子は諸国を歴遊して明君を尋ね、如何にもして周の政治を再興して、文王時代の如き、仁政を施し度いものと思はれたのであるけれども、各国何れも道頽れて明君なく、到底其の志の行はれざるを見て、俗に言へば発心して、即ち初志を改められて政治上に対する大抱負を擲ち、学問を以て世を救はんと決心され、衛より魯に帰つて専ら其の事に従はれたのである。此の章は、其の当時の事であると思ふ。周の政治は、礼と楽とを非常に貴んだものであるが、礼とは、曾て屡々述ぶる処ありしが如く、単に礼儀作法を意味するものではなく、国を治むるの規範であり、楽は人の心をやはらげもし又勇めもするものであるが、雅頌とは其の楽の一つで、当時朝廷の楽は雅を歌ひ、宗廟の楽は頌を歌ふたものである。
 孔子、衛より魯に帰つて見るに、古来周の礼楽を伝へて居つた魯も、此時は全く道衰へ、礼楽も頽れて居つた。そこで孔子は其の間違を正し、足らぬ所を補ひ、謬りなからしめられたのである。
 案ずるに、孔子は哀公十一年に衛より魯に帰り、爾来五年の間に詩経、書経、易、礼記等の取調べをなされた様であるが『春秋』の如きは、此の頃に作られた事であると思ふ。要するに、孔子は王道を行ふとしたる大抱負が、悪るく言へば失敗に帰し、数十年に亘る努力も徒労に終つた。夫れで経書を以て世を益さうとされたので、孔子の一転機と見る可きであると思ふ。
子曰。出則事公卿。入則事父兄。喪事不敢不勉。不為酒困。何有於我哉。【子罕第九】
(子曰く。出ては則ち公卿に事へ。入ては則ち父兄に事へ。喪の事は敢て勉めずんばあらず、酒に困れを為さず。何ぞ我に有らん哉。)
 出づるは公の場合を言ひ、公は三公、郷[卿]は九郷[卿]の事であつて、則ち出づる時は三公及び九卿に事へて、よく其の礼を尽し、入りては父兄に事へて孝弟の節を致し、宗族親戚の喪に於ても之を忽せにせず、勉めて其の悲しみを致さゞることなく、宴会の席に於て人に酒を勧めらるゝことあるも、能く自ら節制して乱酔するに至らぬといふ四事は、人の日常行ふ可き事柄であつて、甚だ易しい事であり誰にでも行ひ得らるゝ事ではあるが、孔子自らは謙遜されて、此の四つの者が備つて居らないと言はれた。之れが此章の大体の意味であるが、元来論語は、後世門弟子の書き集めたものであるから、其の章句の順序が整つて居らぬやうに思ふ。前にも述べし如く、孔子は三十歳前後から各国を歴遊し、魯に入りては公卿に次ぐ司冠の職に任ぜられ、自ら政治にも携はつたのであるが、其の理想が実行せらるゝに至らずして、其の方針を替へられたのが六十八歳の時である。其の当時言はれた事とすれば、前の章句と権衡がとれない。されば恐らく此の章句はもつと若い頃に言はれた事であらう。
 要するに、之れは最も卑近に人の務めを示したものであつて、青年子弟に教へる為めに言はれた章句であると思ふ。蓋し孔子は、一方に非常に大きな抱負を懐き、支那全体を先王の政治にしたいといふことを目的とされて居つたのであるが一面に於ては斯くの如き些事にも心をとめられて居つた。屡々述ぶるが如く、孔子は異常の英雄ではない。其の型は平凡なる尋常人であつて、其の尋常人の優れたのが即ち孔子である人間として当然なすべき務め、夫れを勉めずして自然に道に適ふて居つた処に孔子の優れた人格が発露して居る。
 現代人は理窟は能く分つて居るが、実行が之れに伴はない憾みがある。口で如何に立派な事を言つても、実行が之れに伴はなければ何にもならぬ。私は現代人に対して、能く自己を内省して良心に恥ぢざる様な行ひをされん事に切に望むと共に、孔子の誨へを玩味して、大に修養する処あらん事を御奨めしたいと思ふ。
子在川上曰。逝者如斯夫。不舎昼夜。【子罕第九】
(子川の上に在りて曰く。逝く者は斯の如きかな。昼夜を舎めず。)
 此の章句は、文字の通り、人に時を惜み学を勉むる事を勧められたのであつて、孔子が曾て川の辺りに立つて水の流るゝを観つつ弟子を顧みて言はれるには、凡て逝く者は此の川の水の流るゝが如く、昼となく夜となく流れ去つて少しも休むことがないが、光陰も亦之れと同じく一度去つては再び帰つて来ない。されば学に志す者は、一寸の光陰をも惜しみて勉強しなければ、後に悔ゆるも及ばないと訓戒されたのである。朱子は此の章を以て道体を説いたものであると説いて居るけれども、之れは寧ろ光陰を説かれたのであつて、水の流れを見て孔子が人生観、社会観を述べられたと見るのが正しいと思ふ。
 故三島先生も亦光陰を説かれたものであると言はれて居るが、然し解釈のしやうによつては、朱子の解釈も亦必ずしも間違つて居るとも言へない。且つ場合に依つてはかう解釈しても差支なからうと思ふ。
子曰。吾未見好徳如好色者也。【子罕第九】
(子曰く。吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如き者を見ず。)
 之れは孔子が澆季の世にして、道徳の頽れたる事を歎息されたのであつて、『徳を好むと言ふ人は往々あるけれども、多くは真に心から発して人に知られずとも徳を好むといふ風の人でなく、単に表面許りの人である。其の真に徳を好むこと女色を好むが如き者に至りては、未だ曾て見た事がない』と喝破された。
 史記には之れを説明して、孔子が衛に居る時、霊公が美人の聞え高き夫人南子と同車し、孔子をして次の車に乗らしめて市を往来した。孔子は之れを醜しとして此の言があると書いてあるが、其の信否は不明であるけれども、是等の事は学者の詮索する事故、茲には別問題とするが、兎も角南子といふ夫人は非常の美人で、然かも才智の優れた女であつたが、一面に於て淫奔の女性であつたらしい。それで孔子が南子に逢つたといふ事を聞いて、弟子の子路が、「何故あんな厭な人に逢はれましたか!」と言つたさうであるが、何れにしても其の当時、澆季の世で、道徳が頽れて居つた為めに、此の歎を発せられた事は疑ふ余地がない。
 一体道徳といふものは、他人の為めに行ふに非ずして、自分の真情より発するのでなければ、道も徳も価値がない。孔子が当時の道徳の頽廃を歎ぜられたのは至極尤もであるが、道徳を色に譬へたのは聊か穏当でないとも思はれるけれども史記の伝ふるが如く、霊公が夫人南子に溺れて道徳を顧みぬのを歎ぜられて此の言をなしたとすれば、敢て穏当を欠くと言ふ事も出来ない。例へば食に饑ゑた時、其の空腹を満したいと思ふのは、誠心から出る偽りのない要求である、之と同様に、青年が美人を愛するの情は、衷心より出づるのであるから、之れを仮りて喩へられたのである。
 私は本年八十三の老人であるが、種々の事業や其他の利益の伴ふ問題について、或は斯くしたいとか、恁うしたならば怎うであるかといふ様な相談を打ち込んで来る人が、殆んと毎日の如く、朝早くから夜遅くまで訪ねて来る。斯くの如く現代の人は、物質を好むことは、空腹に饑を訴ふるに等しいものがある様に思はれる。之れは現代を通じて一般人の懐いて居る思想であり、傾向ではあるまいか。されば私は此の場合寧ろ此の章句を現代に当て嵌めて、『吾れ未だ徳を好むこと利を好むが如き者を見ず』と言ひ度い。此の方が、最も道徳の頽れて物質万能に傾きつゝある現代に適切であると思ふ。
 吾々が此世に共存して居る以上は、誰でも自分一人で生て行けるものではない。どうしても相寄り相援けて行かなければならぬ。其所に道徳の必要があるのである。されば私は、只利にのみ奔る現代人に、切に反省を促し度いと思ふ。
底本(初出誌):『実業之世界』第18巻第2号(実業之世界社, 1921.02)p.24-27
底本の記事タイトル:実験論語処世談 第九十四回 実行の伴はぬ現代人 / 子爵渋沢栄一