デジタル版「実験論語処世談」[52c](補遺) / 渋沢栄一

2. 理窟は分つてゐるが実行の伴はぬ現代人

りくつはわかっているがじっこうのとものわぬげんだいじん

[52c]-2

子曰。出則事公卿。入則事父兄。喪事不敢不勉。不為酒困。何有於我哉。【子罕第九】
(子曰く。出ては則ち公卿に事へ。入ては則ち父兄に事へ。喪の事は敢て勉めずんばあらず、酒に困れを為さず。何ぞ我に有らん哉。)
 出づるは公の場合を言ひ、公は三公、郷[卿]は九郷[卿]の事であつて、則ち出づる時は三公及び九卿に事へて、よく其の礼を尽し、入りては父兄に事へて孝弟の節を致し、宗族親戚の喪に於ても之を忽せにせず、勉めて其の悲しみを致さゞることなく、宴会の席に於て人に酒を勧めらるゝことあるも、能く自ら節制して乱酔するに至らぬといふ四事は、人の日常行ふ可き事柄であつて、甚だ易しい事であり誰にでも行ひ得らるゝ事ではあるが、孔子自らは謙遜されて、此の四つの者が備つて居らないと言はれた。之れが此章の大体の意味であるが、元来論語は、後世門弟子の書き集めたものであるから、其の章句の順序が整つて居らぬやうに思ふ。前にも述べし如く、孔子は三十歳前後から各国を歴遊し、魯に入りては公卿に次ぐ司冠の職に任ぜられ、自ら政治にも携はつたのであるが、其の理想が実行せらるゝに至らずして、其の方針を替へられたのが六十八歳の時である。其の当時言はれた事とすれば、前の章句と権衡がとれない。されば恐らく此の章句はもつと若い頃に言はれた事であらう。
 要するに、之れは最も卑近に人の務めを示したものであつて、青年子弟に教へる為めに言はれた章句であると思ふ。蓋し孔子は、一方に非常に大きな抱負を懐き、支那全体を先王の政治にしたいといふことを目的とされて居つたのであるが一面に於ては斯くの如き些事にも心をとめられて居つた。屡々述ぶるが如く、孔子は異常の英雄ではない。其の型は平凡なる尋常人であつて、其の尋常人の優れたのが即ち孔子である人間として当然なすべき務め、夫れを勉めずして自然に道に適ふて居つた処に孔子の優れた人格が発露して居る。
 現代人は理窟は能く分つて居るが、実行が之れに伴はない憾みがある。口で如何に立派な事を言つても、実行が之れに伴はなければ何にもならぬ。私は現代人に対して、能く自己を内省して良心に恥ぢざる様な行ひをされん事に切に望むと共に、孔子の誨へを玩味して、大に修養する処あらん事を御奨めしたいと思ふ。

全文ページで読む

デジタル版「実験論語処世談」[52c](補遺) / 渋沢栄一
底本(初出誌):『実業之世界』第18巻第2号(実業之世界社, 1921.02)p.24-27
底本の記事タイトル:実験論語処世談 第九十四回 実行の伴はぬ現代人 / 子爵渋沢栄一