デジタル版「実験論語処世談」[52c](補遺) / 渋沢栄一

1. 孔子生涯の一転機と大戦前の欧洲の状態

こうししょうがいのいちてんきとたいせんまえのおうしゅうのじょうたい

[52c]-1

子曰。吾自衛反魯。然後楽正。雅頌各得其所[。]【子罕第九】
(子曰く。吾れ衛より魯に反り。然る後楽正しく。雅頌各々其所を得たり。)
 魯の哀公十一年の冬に、孔子は衛より其の郷国である魯に帰られたが、其の時、孔子は丁度六十八歳であつた、之れより先き、孔子は周の天下の政治を再興して、大に仁政を布き度いといふ政治的抱負を懐かれ、魯、斉、鄭、衛等に歴遊されたのであるが、此の時、世衰へて先王の道行はれず、徒らに攻伐をのみ事として、権を争ふに日も亦是れ足らざる有様であつた。恰かも、欧洲の天地が、戦前英、仏、独、露、墺[、]伊等の諸大国を始めバルカンの小邦国に至るまで、互に権を競ひたるにも比すべく、其の結果、未曾有の大戦乱は惹起されたのである。
 孔子は諸国を歴遊して明君を尋ね、如何にもして周の政治を再興して、文王時代の如き、仁政を施し度いものと思はれたのであるけれども、各国何れも道頽れて明君なく、到底其の志の行はれざるを見て、俗に言へば発心して、即ち初志を改められて政治上に対する大抱負を擲ち、学問を以て世を救はんと決心され、衛より魯に帰つて専ら其の事に従はれたのである。此の章は、其の当時の事であると思ふ。周の政治は、礼と楽とを非常に貴んだものであるが、礼とは、曾て屡々述ぶる処ありしが如く、単に礼儀作法を意味するものではなく、国を治むるの規範であり、楽は人の心をやはらげもし又勇めもするものであるが、雅頌とは其の楽の一つで、当時朝廷の楽は雅を歌ひ、宗廟の楽は頌を歌ふたものである。
 孔子、衛より魯に帰つて見るに、古来周の礼楽を伝へて居つた魯も、此時は全く道衰へ、礼楽も頽れて居つた。そこで孔子は其の間違を正し、足らぬ所を補ひ、謬りなからしめられたのである。
 案ずるに、孔子は哀公十一年に衛より魯に帰り、爾来五年の間に詩経、書経、易、礼記等の取調べをなされた様であるが『春秋』の如きは、此の頃に作られた事であると思ふ。要するに、孔子は王道を行ふとしたる大抱負が、悪るく言へば失敗に帰し、数十年に亘る努力も徒労に終つた。夫れで経書を以て世を益さうとされたので、孔子の一転機と見る可きであると思ふ。

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デジタル版「実験論語処世談」[52c](補遺) / 渋沢栄一
底本(初出誌):『実業之世界』第18巻第2号(実業之世界社, 1921.02)p.24-27
底本の記事タイトル:実験論語処世談 第九十四回 実行の伴はぬ現代人 / 子爵渋沢栄一