デジタル版「実験論語処世談」[52b](補遺) / 渋沢栄一

8. 周時代の日本の文化

しゅうじだいのにほんのぶんか

[52b]-8

子欲居九夷。或曰。陋。如之何。子曰。君子居之。何陋之有。【子罕第九】
(子九夷に居らんと欲す。或は曰く。陋。之を如何せんと。子曰く。君子之に居らば、何の陋き事か之れ有らん。)
 孔子が、当時の魯は勿論、衛に行つても、其他の何所に行つても道の行はれざるを見て、歎息され、中国に居つても到底道が行はれざる故、此国を去つて九夷に移らうと言はれた。然し之れは真に移住されやうと欲したのではなく、桴に乗りて海に浮ばんと言はれしと同じく、中国の衰へて明君なく、道の遂に行はれざるを見て、此の歎を発せられたのである。然るに或人其の真意を解せず、九夷は未開の地にて風俗悪く君子の居る可き処ではない。之を如何にせらるゝやと問ふた。孔子は之に答へて、君子の居る処は如何なる悪風俗であつても自ら化して善良となるものである。其の陋を憂ふるに足らずと言はれた。之れが此の章の大体の意味であつて、三島先生も斯ういふ意味に講義されて居る。
 此の九夷といふのは、東方の九種の夷を指したものであるが、約十年計り前に孔子祭典会に於て故重野成斎氏が之に就て講演された一節に、『君子居之』は、『君子之れに居れり』と読むべきであつて、九夷の内には日本も入つてゐる。即ち当時(周の時代)既に日本は相当に文物制度が発達して居つて、日本の君子国といふ事が知られて居つた為に、孔子が斯く謂はれたのであると解釈された。之は果して根拠のある事かどうかは、成斎氏が既に故人となられたので今之を確かむる事は出来ないが、記憶に残つてゐるので、御参考までに申述べて置き度いと思ふ。
 人は其の交はる友によりて、感化され易い。されば其の友の選択に就ては充分の注意を払ふ可きであるが、然し君子は如何なる悪風俗の処に住んでも、決して之れが為めに悪化さるゝ様な事はなく、却て其の接触する人を善良化し、漸次郷党を薫化するに至るものである。畢竟、風俗の悪るい処に住んで之に悪化さるゝのは、意志が薄弱にして誘惑に勝つ事が出来ぬ為めであるから、須く意志を鞏固にし、現代の悪風潮に染まぬ様にしなければならぬと思ふ。

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デジタル版「実験論語処世談」[52b](補遺) / 渋沢栄一
底本(初出誌):『実業之世界』第18巻第1号(実業之世界社, 1921.01)p.44-49
底本の記事タイトル:実験論語処世談 第九十三回 現代人の最大欠陥 / 子爵渋沢栄一