デジタル版「実験論語処世談」(11) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.22-30

子曰。君子無所争。必也射乎。揖譲而升。下而飲。其争也君子。【八佾第三】
(子曰く、君子は争ふ所無し、必ずや射か。揖譲して升り、下つて飲む、其の争ひや君子なり。)
 この章句は「祭るには在すが如くにす」の章句よりも少し前にあるのだが、談話の都合で却て少し後廻しにしたのである。大体の意味は苟も君子は漫りに他人と争ふやうな事を致さぬものだが、弓を射て争ふが如き、礼儀正しき正々堂々たる争ひならば之を敢てするに躊躇せぬものだといふにある。「君子は争ふ所無し、必ずや射か」とはこの意を伝へたるに外ならぬ。周の礼法に於て、弓術の競技を行ふ際は之に参加する面々まず一同勢揃ひをした上で、揖譲と申して競技場に至る階段に登るに先ち、北面して互ひ一礼し、愈よ階段に登らうとする時に又更に重ねて互に一礼し、それから階段を登つて競技場に入り、競技を終り階段を降つた所で又登段の時と同一の礼を互ひに交換し、それから敗けた方の者が、罰杯として酒を飲むといふのが慣習であつたのである。孔夫子御教訓の趣旨は、斯く礼儀正しく行ふ争ひならば之を致しても差支ないが、怒号咆吼して一時の快を取る如き争ひは之を致しては成らぬものだと戒められたのである。
 然し、世間には争ひを絶対に排斥し、如何なる場合に於ても争ひをするといふ事は宜しく無い、人若し爾の右の頰を打たば左の頰をも向けよ、なぞと説く者もある。斯んな次第で、他人と争ひをするといふ事は処世上果して利益になるものだらうか、将た不利益を与へるものだらうか。この実際問題になれば、随分人によつて意見が異ふ事だらうと思ふ。争ひは決して排斥すべきで無いと言ふものがあるかと思へば、又絶対に排斥すべきものだと考へて居る人もある。
 私一己の意見と致しては、争ひは決して絶対に排斥すべきものでなく、処世の上にも甚だ必要のものであらうかと信ずるのである。私に対し、世間では余りに円満過ぎるなぞとの非難もあるらしく聞き及んでるが、私は漫りに争ふ如き事こそせざれ、世間の皆様達が御考へになつて居る如く、争ひを絶対に避けるのを処世唯一の方針と心得て居るほどに、さう円満な人間でも無い。
 孟子も「告子章句下」に於て「敵国外患なき者は国恒に亡ぶ」と申されて居るが、如何にも其の通りで、国家が健全なる発達を遂げて参らうとするには、商工業に於ても、学術技芸に於ても、外交に於ても常に外国と争つて必ず之に勝つて見せるといふ意気込みが無ければならぬものである。啻に国家のみならず一個人におきましても、常に四囲に敵があつて之に苦しめられ、その敵と争つて必ず勝つて見せようとの気が無くては、決して発達進歩するもので無い。
 後進を誘掖輔導せらるる先輩にも、大観した所で二種類の人物があるかの如くに思はれる。その一は、何事にも後進に対して優しく親切に当る人で、決して後進を責めるとか苛酷るとか申すやうな事をせず飽くまで懇篤と親切とを以て後進を引立て、決して後進の敵になる如き挙動に出でず、如何なる欠点失策があつても猶ほ其後進の味方になるを辞せず、何処何処までも後進を庇護つて行かうとするのを持前とせられて居る。
 斯ういふ風の先輩は後進より非常の信頼を受け、慈母の如くになつかれ慕はるるものであるが、斯る先輩が果して後進の為に真の利益になるか如何かは些か疑問である。他の種類は恰度之の正反対で、何時でも後進に対する敵国の態度を以てし、後進の揚足を取ることばかりを敢てして悦び、何か少しの欠点が後進にあれば直ぐガミガミと呶鳴りつけて之を叱り飛ばして完膚なきまでに罵り責め、失策でもするともう一切かまひ付けぬといふ程につらく後進に当る人である。斯く、一見残酷なる態度に出づる先輩は、往々後進の怨恨を受けるやうな事もあるほどのもので、後進の間には甚だ人望の乏しいものであるが、斯る先輩は果して後進の利益にならぬものだらうか。この点は篤と青年子弟諸君に於て熟考せられて然るべきものだらうと思ふ。
 如何に欠点があつても又失策をしても、飽くまで庇護つて呉れる先輩の懇篤なる親切心は、誠に難有いものであるに相違ないが、かかる先輩ばかりしか無いといふ事になれば、後進の奮発心を甚だしく沮喪さするものである。仮令、失敗しても先輩が恕して呉れる、甚だしきに至つては如何なる失策をしても、失策すれば失策したで先輩が救つて呉れるから予め心配する必要は無いなぞと、至極暢気に構へて事業に当るにも、綿密なる注意を欠いたり、軽ハズミをしたりするやうな後進を生ずるに至り、什麽しても後進の奮発心を鈍らする事になるものである。
 之に反し、後進をガミガミ責めつけて常に後進の揚足を取つてやらうやらうといふ気の先輩が上にあれば、その下にある後進は寸時も油断がならず、一挙一動にもスキを作らぬやうにと心懸け、あの人に揚足を取られる如き事があつてはならぬからと、自然身持にも注意して不身持な事をせず、怠惰るやうな事も慎み、一体に後進の身が締るやうになるものである。殊に後進の揚足を取るに得意な先輩は、後進の欠点失策を責めつけ、之を罵り嘲けるのみで満足せず、その親の名までも引き出して之を悪しざまに云ひ罵り、「一体貴公の親からして宜しく無い」なぞとの語を能く口にしたがるものである。随つて斯る先輩の下にある後進は、若し一旦失策失敗あれば単に自分が再び世に立てなくなるのみならず、親の名までも辱しめ、一家の恥辱になると思ふから、什麽しても奮発する気になるものである。
 之に就て私が一身上に親しく実験致した好い例がある。私が壮年の頃郷里に二人の従兄があったが、両人は全く性質の異つた人物で一人は飽くまで私に同情し、親切懇情のあるつたけを私に対して尽して呉れたものであるが、他の一人は全く其の反対で、私の顔さへ見れば私を罵り「貴様の如き馬鹿者は世の中に余り有るもので無い」とか或は又「貴様のやうに生意気な人間は親類中の面穢である」とかと私を目前に置きながら口を極めて私を罵倒したものである。それでこの従兄には又不思議なところがあつて、世間に出ると「己れの親類には栄一のやうな那的いふ豪い男もある」なぞと誇り気に語るを例としたものである。私はこの従兄に有象罔象のやうに罵らるるのを耳にする毎に口惜くつて口惜くつて堪らず、世間に出て誇る時には栄一の名を担ぎ私に面と向へば天下のヤクザ者の如く罵るとは何事だと腹が立つて致方の無かつたものであるが、今になつて考へてみれば、私に取つて二人の従兄の中何方が裨益になつたかと云ふに、私に飽くまで同情を表して呉れた従兄の方よりも、私を見る度に私を罵倒した従兄の方が私の裨益になつて居る。彼奴に揚足を取られては口惜しいからと思ふ気が、自然私を奮発させ、不肖ながら今日あるに至らしめたと言ひ得るのである。
 揚足を取つて呉れ、自分を罵り責めて呉れる先輩を上に持つてるといふ事は、国家で申さば敵国外患あるに等しく、人の発達進歩に裨益する処の甚だ多いもので、これも一種の争ひであると謂ひ得るが、論語の「顔淵篇」には「克己復礼」の語がある。己れに克つて礼に復るといふ事も、つまりは争ひである。私利私慾と争ひ、善を以て悪に勝たなければ、人は決して礼に復り人の人たる道を履んで行けるやうになれぬものである。されば人は徳を修めて立派な人間にならうとするには、什麽しても争ひを避けるわけには参らぬといふ事になる。品性の向上発展は、悪との争ひによつて始めて遂げ得らるるものである。絶対に争ひを避け、悪とも争はず己れに克たうとする心懸けさへ無くなつてしまふやうでは、品性は堕落する一方になる。争ひは決して絶対に避くべきものでは無い。社会の進歩の上にも国家の進歩の上にも個人の発達の上にも品性の向上の上にも無ければならぬものである。
 私を絶対に争ひをせぬ人間であるかのやうに御解釈なさつてる方々も世間には多い如くに御見受け申すが、私は勿論好んで他人と争ふ事こそ致さざれ、全く争ひを致さぬといふのでは無い。苟も正しい道を飽くまで歩んで行かうとすれば、争ひを絶対避けるわけには参らぬものである。絶対に争ひを避けて世の中を渡らうとすれば、善が悪に勝たれるやうな事になり、正義も行はれぬやうになつてしまふ。私は不肖ながら、正しい道に立つて猶ほ悪と争はず、之に道を譲るほどに所謂円満な腑甲斐のない人間で無い積りである。人間は如何に円くとも何処かに角が無ければならぬもので、古歌にもある如く、余り円いと却て顛び易い事になる。
 私は世間で御覧下さるほどに、決して所謂円満な人間では無い。一見所謂円満なやうでも、実際に於ては何処かに所謂円満で無い処があらうかと存ずる。若い時分には素より爾うであつたが、七十の坂を越してしまつた今日と雖も、私の信ずる処を動かし、之を覆へさうとする者が現るれば、私は断々乎として其人と争ふ事を辞せぬのである。私が自ら信じて正しいとする処は、如何なる場合に於ても決して他に譲るやうな事を致さぬ。是処が私の絶対に所謂円満で無いところであらうかと思ふ。人には老いたると若きとの別なく、誰にでも是れ丈けの不円満な処が是非あつて欲しいものである。然らざれば人の一生も全く生き甲斐の無い無意味なものになつてしまふ。如何に人の品性は円満に発達せねばならぬものであるからとて、余りに円満になり過ぎると、過ぎたるは猶ほ及ばざるが如しと論語先進篇にも孔夫子が説かれて居る通りで、人として全く品位の無いものになる。
 私が絶対に所謂円満な人間で無い、相応に角もあり、円満ならざる甚だ不円満な処もある人物だと申す事を証明するに足る――「証明」といふ語を用ゐるのも少し異様だが――実例を一寸談話して見ようかと思ふ。私は勿論少壮の頃より腕力に訴えて他人と争ふ如き事を致した覚えは無い。然し若い時分には、今日と違つて、容貌などにも余程強情らしいところのあつたものと存ずる。随つて、他人の眼からは今日よりも容易に争ひを致しさうに見えたかも知れぬ。是れまで申述べたうちにも屡〻談話し致して置いたやうに、大久保卿なぞとも争つたものであるが、私の争ひは若い時分から総て議論の上、推理の上での争ひで、腕力に流れた経験は未だ曾て一度も無い。
 明治四年、私が恰度三十三歳で大蔵省に奉職し、総務局長を勤めて居つた時代の頃であるが、大蔵省の出納制度に一大改革を施し、改正法を布いて西洋式の簿記法を採用し、伝票によつて金銭の出納をすることにした。処が当時の出納局長であつた人が――その姓名は憚りがあるから申上げかねるが――この改正法に反対の意見を持つて居つたのである。伝票制度の実施に当つて偶〻過失のある事を私が発見したので、当事者に対して之を責めて遣ると、元来私が発案実施した改正法に反対の意見を持つて居たその出納局長といふ男が、傲岸な権幕で一日、私の執務して居つた総務局長室に押しかけて来たのである。
 その出納局長が、怒気を含んだ権幕で私に詰め寄るのを見て、私は静に其男の曰はうとする処を聴き取る積で居ると、その男は伝票制度の実施に当つて手違ひをした事などに就ては一言の謝罪もせず、切りに私が改正法を布いて欧洲式の簿記法を採用した事に就てのみ彼是と不平を並べるのであつた。「一体貴公が亜米利加に心酔して、一から十まで彼国の真似ばかり為たがり、改正法なんかといふものを発案して簿記法によつて出納を行はせようとするから、斯んな過失が出来るのである。責任は過失をした当事者よりも、改正法を発案した貴公の方にある。簿記法なぞを採用して呉れさへせねば、我儕も斯んな過失を為て貴公なんかに責められずに済んだのである。」などと言語道断の暴言を恣にし、些かたりとて自分等の非を省る模様が無いので、私も其の非理窟には稍〻驚いたが、猶ほ憤らず、出納の正確を期せんとするには是非共欧洲式簿記法により、伝票を使用する必要ある事を諄々と説いて聞かせたのである。然し、その出納局長なる男は、毫も私の言に耳を藉さぬのみか、二言三言云ひ争つた末、満面恰も朱を注げる如く紅くなつて、拳固を揮りあげ、私目蒐けて打ち掛つて来たのである。
 その男は小脊の私に比べれば身長の高い方であつたが、怒気心頭に発して足がフラついて居た上に、余り強さうにも見えず、私は兎に角青年時代に於て相当に武芸も仕込れ、身を鍛へて居つたことでもあるから、強ち腕力が無いといふわけでも無かつた。苟めにも腕力に訴へて無礼をしたら、一ト拈りに拈つてやるのは何でも無い事だとは思つたが、その男が椅子から立ちあがつて拳を握り腕を挙げ、阿修羅の如くになつて猛けり狂ひ、私に詰めかけて来るのを見るや私も直ぐ椅子を離れてヒラリと身をかはし、全く神色自若として二三歩ばかり椅子を前に控えて後部に退き、その男が拳の持つて行きどころに困り、マゴマゴして隙を生じたのを見て取るや、隙さず泰然たる態度で「此処は御役所で厶るぞ、何んと心得召さる、車夫馬丁の真似をする事は許しませんぞ御慎みなさい」と一喝したものだから、その出納局長も、はつと、悪い事をした、田夫野人の真似をしたといふのに気がついたものか、折角揮り挙げた拳を引つ込めて、そのままスゴスゴと私の居つた総務局長室を出て行つてしまつたのである。
 その後、その男の進退に関し種々と申出る者もあり、又官庁の内で上官に対し暴力を揮はんとしたのは怪しからぬなぞと騒ぎ立てる者もあつたが、私は当人さへ自分の非を覚り悔悟したといふ事ならば、依然在職させて従来の如く使つてゆく積であつた。然し省中の者共が当の私よりも却て憤慨し、右の事情を詳細太政官に内申に及んだので、太政官でも放つて置くわけにも行かず、その男も遂に免職せらるるに至つたのは、私が今猶ほ甚だ気の毒に存ずる処である。
 私のやうに、既に七十の坂を越してしまつた老人ですらも、世間の方々が御覧になつて御考へ下されて居るほどに所謂円満の人物でなく争はねばならぬ時には何処までも争ふに躊躇せぬほどのものであるとしたら、況んやまだ年齢の若い元気の充満した青年子弟諸君が、一にも二にも争ひを避けよう避けようといふやうな精神ばかりを持つて、世に立たうとせらるるのは以ての外の事で、さうなれば什麽しても卑屈に流れ、取り柄の無い人間になつてしまふものである。老人になつてからは兎も角としたところで、青年のうちは他人の気色ばかりを窺つて争ひを避けようなぞとせず、争ふ処は何処何処までも争つて行かうとの決心を絶えず胸の中に持つて居る必要がある。此の精神が無ければ青年は死んだも同じになつてしまふ。漫りに他に屈せず、能く他と争つて勝たうといふ精神があればこそ、人には進歩発達が伴ふのである。卑屈で反撥心の無い青年は、譬へば塩が其味を失つてしまつたのと同じで、如何とも致し方が無くなる。青年子弟諸君は能く此の消息を心得置かるべき筈のものである。独立独歩とか、艱難の間に道を切り開いて立身出世をするとかいふ事も、本を訊せば争ひを辞せぬ覚悟のある処より来るものである。争ひを辞さぬ覚悟が無ければ、青年は決して世の中に立つて成功し得るもので無い。私が今日如何にかなつて居るのも、信ずる処は曲げないで、飽くまで争ふ処は争つて来たのに基く事だらうと思ふ。
 苟も人と生れ――殊に青年時代に於て絶対に争ひを避けようとする如き卑屈の根性では、到底進歩する見込も発達する見込もなく、又社会進運の上にも争ひの必要である事は是れまで縷々申述べた通りの次第であるが、争ひを強ひて避けぬと同時に、時期の到来を気永に待つといふ事も、処世の上には必要欠くべからざるものである。
 私は今日とても、勿論争はざるべからざる処は争ひもするが、半生以上の長い間の経験によつて些か悟つた処があるので、若い時に於けるが如く争ふ事を余り多く致さぬやうになつたかの如くに、自分ながら思はれる。此れは、世の中の事は斯くすれば必ず斯くなるものであるといふ因果の関係を能く呑み込んでしまつて、既に或る事情が因を成して或る結果を生じてしまつて居る処に、突然横から現れて形勢を転換しようとし、争つてみた処で、因果の関係は俄に之を断ち得るものでなく、或る一定の時期に達するまでは、人力で到底形勢を動かし得ざるものである事に想ひ到つたからである。人が世の中に処して行くのには、形勢を観望して、気永に時期の到来を待つといふ事も決して忘れてはならぬ心懸である。正しきを曲げんとする者、信ずる処を屈せしめんとする者あらば断じて之と御争ひなさいと、青年子弟諸君に御勧めする傍ら、私は又気永に時期の到来を待つ忍耐も無ければならぬ事を、是非青年子弟諸君に考へて置いて戴きたいのである。
 私は、日本今日の現状に対しても極力争つて見たいと思ふことが無いでも無い。幾干もある。就中日本の現状で私の最も遺憾に思ふのは官尊民卑の弊が未だに止まぬ事である。官にある者ならば如何に不都合な事を働いても大抵は看過せられてしまふ。偶〻世間物議の種を作つて裁判沙汰となつたり、或は隠居をせねばならぬやうな羽目に遇ふ如き場合も無いでは無いが、官にあつて不都合を働いて居る全体の者に比較すれば、実に九牛の一毛、大海の一滴にも当らず、官にあるものの不都合なる所為は、或る程度まで黙許の姿であると申しても敢て過言で無いほどである。
 之に反し、民間にある者は、少しでも不都合な所為があれば直に摘発されて、忽ち縲紲の憂き目に遇はねばなら無くなる。不都合の所為ある者は総て罰せねばならぬとならば、その間に朝にあると野にあるとの差別を設け、一方に寛に、一方に酷であるやうな事があつてはならぬ。若し大目に看過すべきものならば、民間にある人々に対しても官にある人々に対すると同様に、之を看過して然るべきものである。然るに、日本の現状は、今以て官民の別により寛厳の手心を異にして居る。
 又、民間にあるものが如何に国家の進運に貢献する功績を挙げてもその功が容易に天朝に認められぬに反し、官にある者は寸功があつたのみでも、直ぐに其れが認められて恩賞に与るやうになる。是等の点は、私が今日に於て極力争つて見たいと思ふ所だが、仮令私が如何に争つたからとて、或る時期の到来するまでは到底大勢を一変するわけにゆかぬものと考へて居るので、目下の処私は、折に触れ不平を漏らすぐらゐにとどめ、敢て争はず、時期を待つてるのである。
 私が御見受け申した処では、維新時代の英傑のうちで、能く他人と争ひ、腕力に訴へてまでも、又理が非でも何でも拘はず我理無理に我論我流を通さうといふ性行のあつた方は、大西郷公と共に征韓論を主張し、其議の行はれざるに業を煮やして参議を辞し、郷国佐賀の不平士族共に擁せられ、島義勇さんと志を合せ、旧佐賀城に拠つて兵を挙げ、敗北するや鹿児島に走つて西郷隆盛に救を求めて聴かれず、遂に高知県下で捕はれ、明治七年四月十三日、四十歳で
国を思ふ人こそ知らね丈夫が心つくしの袖のなみだを
の辞世一首を遺して斬首の刑に処せられた江藤新平さんであらうかと思はれる。江藤さんは、至極性急の質で、自分の一旦言ひ出した事は如何なる場合にも曲げず、腕力に訴へてまでも他人と争ひ、無理にも自分の意見を通さうとせられたもので、時期の到来を待てなかつた人である。明治五年司法卿に任ぜられて各府県に裁判所を設置しようとせられたが、大蔵省と経費の点で確執を生じた時なぞも、随分豪い権幕で大蔵省の当局者と争つたものだと聞き及んで居る。
 江藤さんに次いでは、明治四年欧洲より帰朝して参議兼開拓使長官に任ぜられ、北海道開拓事業の基を開き、米国人クラークを聘して札幌の農科大学を創設し、明治二十一年より二十八年までの間に前後四回総理大臣若しくは同代理を勤められ、三十三年六十一歳で薨去になつた黒田清隆伯が、能く他人と争ひ、時に腕力に訴へてまでも我論我流の意見を通さうとせられた方であつたかの如くに思はれる。
 維新当時桂小五郎と称した木戸孝允先生は、江藤新平さんや黒田清隆伯なぞとは全く性行の異つた方で、他人と争ふ事なぞは殆ど無かつたものである。私は木戸先生と親密の御交際を願つたわけでも無いがその平素の性行より察するに、何事に接しても時期を待つといつたやうな態度で、縦令自分の意見が行はれぬからとて、他人と争つてまでも無理に之を通さうなぞとはせられず、成行に任せて置き、静に形勢を観望して時節到来を気永に待つて居られたものであるかの如くに思はれる。
 大久保卿は私と争ひ、私が大久保卿と争つた事のある次第は、これまで談話したうちにも詳しく申述べ置いた通りであるが、あの場合は私が、大久保卿が財政の事に碌々通じもせぬ癖に、勝手気儘の意見を主張するものと考へて反対したのと、又大久保卿が薩摩人の性癖から私の卒爾として反対意見を述べたのを癪に障へ、生意気な事を云ふ若輩だと思はれたのから起つた争ひで、寧ろ大久保卿一生の性行中で例外に属すべきものである。大体から其平素を謂へば、大久保卿は江藤さんや黒田伯とは異つて、容姿の閑雅な、挙動に落付いた処のあつた方で、容易に他人と争はれるやうな事をせられなかつたものである。私と争つた場合の事に就て謂へば、若し大久保卿にいま一段と大きな性格がありさへしたら、あの場合にも私などと争はず、私の言ふ処にも理があるから、一つその意見を訊し詳細を聞いてやらうとの気を起され、私と争ふ如き児戯に類する事をせられなかつた筈だと思ふのである。ここが木戸先生と大久保卿との異る処である。
 伊藤博文公は又木戸先生や大久保卿と稍〻異つた処があつて、争ひを避けず、随分能く他人と争はれたものである。然し、江藤さんや黒田伯のせられた争ひとも異つて、全然議論上の争ひで、頗る議論の好きな方であつた。理が非でも自分の意見を我理無理に通さうといふのでは無い。議論の上で対手を説服して自分の意見を通さうといふのであつた如くに思はれる。議論で争つて対手を説服し、その上で自分の意見を行はうといふのであるから、伊藤公が対手と議論をせらるる時には、必ず先づ其対手を無学な者と視て、議論を浴びせかけて来るやうな癖があつたものである。
 伊藤公の議論は総て論理で築きあげたもので、この手が対手を説服し得ぬ時には他の手で説服するといつたやうな具合に、四方八方から論理づくめで、ピシピシと攻め寄せて来られたものである。その上、伊藤公の議論には必ず古今東西の例証を沢山に引照せられるのを例としたものである。その博引傍証には、一度伊藤公と議論を上下した者は誰でもみな驚かされたものである。
 こんな風で、伊藤公は議論さへすれば必ず其犀利精到なる論理と其豊富なる例の博引傍証とによつて対手を叩きつけ、議論の上から敵をしてグウの音も出せないやうに説破するを心懸けられたが、又一方に於ては、議論の対手を遇する呼吸をも能く心得居られたものである。
 博引傍証と論理とに叩き続けられて相手が大いに興奮して来たな、と看て取ると、伊藤公は一寸論鋒を外して、暫く論理や例証で対手をピシピシ攻めつける事を止め、対手の気が落付いて興奮の度を減ずるまで潮加減を測つて待つて居られたものである。伊藤公の議論振りを知らぬ人は、これで議論が終結に及んだのかと思ふが、豈に計らんや却〻以て爾うでは無い。対手の気が落付いて興奮が無くなつた頃合を見計らひ、又ぞろ中入前の議論に立ち帰つて、更めて再び得意の論理と博引傍証で対手を愈よ説服し得るドン底の処まで叩きつけ、攻めて来る。是処に伊藤公の特色があつたやうに思はれる。斯く議論好きで議論の上では好んで他人と争はれた伊藤公も、私人としての交際の上では決して他人と争はれなかつたものである。議論上での争ひは、皆国事に関し公の事に関したもののみである。
 大隈伯も昨今では主として他に説き聞かせる側の人になられて、殆ど説き聞かせる一方の如くに御見受け申すが、これは御年齢も進み、国家の長老となられたからの事で、私なぞが大蔵省で御一緒致した頃――また其後になつてからでも、まだ御若いうちは、今日の如く説き聞かせる一方でなく、随分能く他人の意見に耳を傾けられ、之を善しと見れば採用するに躊躇せられなかつたものである。
 大隈伯なぞも、維新の元勲中では他人と争はれぬ側の部に属せられる方であらうかと思はれる。尤も明治初年の未だ御若かつた頃から、多少今日の如き傾向が其性行中に無かつたでも無く、好んで壮快な議論を上下せられたものではあるが、能く他人の意見にも随はれ、他と争つてまでも、我理我流を飽迄貫徹しようといふ如き、江藤さんや黒田伯にあつた流儀のあらせられなかつた方である。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.22-30
底本の記事タイトル:二〇七 竜門雑誌 第三三五号 大正五年四月 : 実験論語処世談(一一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第335号(竜門社, 1916.04)
初出誌:『実業之世界』第12巻第24,25号,第13巻第1号(実業之世界社, 1915.12.01,12.15,1916.01.01)