デジタル版「実験論語処世談」(11) / 渋沢栄一

7. 私も争ふ事がある

わたしもあらそうことがある

(11)-7

 私を絶対に争ひをせぬ人間であるかのやうに御解釈なさつてる方々も世間には多い如くに御見受け申すが、私は勿論好んで他人と争ふ事こそ致さざれ、全く争ひを致さぬといふのでは無い。苟も正しい道を飽くまで歩んで行かうとすれば、争ひを絶対避けるわけには参らぬものである。絶対に争ひを避けて世の中を渡らうとすれば、善が悪に勝たれるやうな事になり、正義も行はれぬやうになつてしまふ。私は不肖ながら、正しい道に立つて猶ほ悪と争はず、之に道を譲るほどに所謂円満な腑甲斐のない人間で無い積りである。人間は如何に円くとも何処かに角が無ければならぬもので、古歌にもある如く、余り円いと却て顛び易い事になる。
 私は世間で御覧下さるほどに、決して所謂円満な人間では無い。一見所謂円満なやうでも、実際に於ては何処かに所謂円満で無い処があらうかと存ずる。若い時分には素より爾うであつたが、七十の坂を越してしまつた今日と雖も、私の信ずる処を動かし、之を覆へさうとする者が現るれば、私は断々乎として其人と争ふ事を辞せぬのである。私が自ら信じて正しいとする処は、如何なる場合に於ても決して他に譲るやうな事を致さぬ。是処が私の絶対に所謂円満で無いところであらうかと思ふ。人には老いたると若きとの別なく、誰にでも是れ丈けの不円満な処が是非あつて欲しいものである。然らざれば人の一生も全く生き甲斐の無い無意味なものになつてしまふ。如何に人の品性は円満に発達せねばならぬものであるからとて、余りに円満になり過ぎると、過ぎたるは猶ほ及ばざるが如しと論語先進篇にも孔夫子が説かれて居る通りで、人として全く品位の無いものになる。

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キーワード
渋沢栄一, 争ひ,
デジタル版「実験論語処世談」(11) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.22-30
底本の記事タイトル:二〇七 竜門雑誌 第三三五号 大正五年四月 : 実験論語処世談(一一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第335号(竜門社, 1916.04)
初出誌:『実業之世界』第12巻第24,25号,第13巻第1号(実業之世界社, 1915.12.01,12.15,1916.01.01)