9. スラリと身を交はす
すらりとみをかわす
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その男は小脊の私に比べれば身長の高い方であつたが、怒気心頭に発して足がフラついて居た上に、余り強さうにも見えず、私は兎に角青年時代に於て相当に武芸も仕込れ、身を鍛へて居つたことでもあるから、強ち腕力が無いといふわけでも無かつた。苟めにも腕力に訴へて無礼をしたら、一ト拈りに拈つてやるのは何でも無い事だとは思つたが、その男が椅子から立ちあがつて拳を握り腕を挙げ、阿修羅の如くになつて猛けり狂ひ、私に詰めかけて来るのを見るや私も直ぐ椅子を離れてヒラリと身をかはし、全く神色自若として二三歩ばかり椅子を前に控えて後部に退き、その男が拳の持つて行きどころに困り、マゴマゴして隙を生じたのを見て取るや、隙さず泰然たる態度で「此処は御役所で厶るぞ、何んと心得召さる、車夫馬丁の真似をする事は許しませんぞ御慎みなさい」と一喝したものだから、その出納局長も、はつと、悪い事をした、田夫野人の真似をしたといふのに気がついたものか、折角揮り挙げた拳を引つ込めて、そのままスゴスゴと私の居つた総務局長室を出て行つてしまつたのである。
- デジタル版「実験論語処世談」(11) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.22-30
底本の記事タイトル:二〇七 竜門雑誌 第三三五号 大正五年四月 : 実験論語処世談(一一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第335号(竜門社, 1916.04)
初出誌:『実業之世界』第12巻第24,25号,第13巻第1号(実業之世界社, 1915.12.01,12.15,1916.01.01)