デジタル版「実験論語処世談」(11) / 渋沢栄一

9. スラリと身を交はす

すらりとみをかわす

(11)-9

 その出納局長が、怒気を含んだ権幕で私に詰め寄るのを見て、私は静に其男の曰はうとする処を聴き取る積で居ると、その男は伝票制度の実施に当つて手違ひをした事などに就ては一言の謝罪もせず、切りに私が改正法を布いて欧洲式の簿記法を採用した事に就てのみ彼是と不平を並べるのであつた。「一体貴公が亜米利加に心酔して、一から十まで彼国の真似ばかり為たがり、改正法なんかといふものを発案して簿記法によつて出納を行はせようとするから、斯んな過失が出来るのである。責任は過失をした当事者よりも、改正法を発案した貴公の方にある。簿記法なぞを採用して呉れさへせねば、我儕も斯んな過失を為て貴公なんかに責められずに済んだのである。」などと言語道断の暴言を恣にし、些かたりとて自分等の非を省る模様が無いので、私も其の非理窟には稍〻驚いたが、猶ほ憤らず、出納の正確を期せんとするには是非共欧洲式簿記法により、伝票を使用する必要ある事を諄々と説いて聞かせたのである。然し、その出納局長なる男は、毫も私の言に耳を藉さぬのみか、二言三言云ひ争つた末、満面恰も朱を注げる如く紅くなつて、拳固を揮りあげ、私目蒐けて打ち掛つて来たのである。
 その男は小脊の私に比べれば身長の高い方であつたが、怒気心頭に発して足がフラついて居た上に、余り強さうにも見えず、私は兎に角青年時代に於て相当に武芸も仕込れ、身を鍛へて居つたことでもあるから、強ち腕力が無いといふわけでも無かつた。苟めにも腕力に訴へて無礼をしたら、一ト拈りに拈つてやるのは何でも無い事だとは思つたが、その男が椅子から立ちあがつて拳を握り腕を挙げ、阿修羅の如くになつて猛けり狂ひ、私に詰めかけて来るのを見るや私も直ぐ椅子を離れてヒラリと身をかはし、全く神色自若として二三歩ばかり椅子を前に控えて後部に退き、その男が拳の持つて行きどころに困り、マゴマゴして隙を生じたのを見て取るや、隙さず泰然たる態度で「此処は御役所で厶るぞ、何んと心得召さる、車夫馬丁の真似をする事は許しませんぞ御慎みなさい」と一喝したものだから、その出納局長も、はつと、悪い事をした、田夫野人の真似をしたといふのに気がついたものか、折角揮り挙げた拳を引つ込めて、そのままスゴスゴと私の居つた総務局長室を出て行つてしまつたのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(11) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.22-30
底本の記事タイトル:二〇七 竜門雑誌 第三三五号 大正五年四月 : 実験論語処世談(一一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第335号(竜門社, 1916.04)
初出誌:『実業之世界』第12巻第24,25号,第13巻第1号(実業之世界社, 1915.12.01,12.15,1916.01.01)