デジタル版「実験論語処世談」(11) / 渋沢栄一

13. 江藤新平と黒田清隆

えとうしんぺいとくろだきよたか

(11)-13

 私が御見受け申した処では、維新時代の英傑のうちで、能く他人と争ひ、腕力に訴へてまでも、又理が非でも何でも拘はず我理無理に我論我流を通さうといふ性行のあつた方は、大西郷公と共に征韓論を主張し、其議の行はれざるに業を煮やして参議を辞し、郷国佐賀の不平士族共に擁せられ、島義勇さんと志を合せ、旧佐賀城に拠つて兵を挙げ、敗北するや鹿児島に走つて西郷隆盛に救を求めて聴かれず、遂に高知県下で捕はれ、明治七年四月十三日、四十歳で
国を思ふ人こそ知らね丈夫が心つくしの袖のなみだを
の辞世一首を遺して斬首の刑に処せられた江藤新平さんであらうかと思はれる。江藤さんは、至極性急の質で、自分の一旦言ひ出した事は如何なる場合にも曲げず、腕力に訴へてまでも他人と争ひ、無理にも自分の意見を通さうとせられたもので、時期の到来を待てなかつた人である。明治五年司法卿に任ぜられて各府県に裁判所を設置しようとせられたが、大蔵省と経費の点で確執を生じた時なぞも、随分豪い権幕で大蔵省の当局者と争つたものだと聞き及んで居る。
 江藤さんに次いでは、明治四年欧洲より帰朝して参議兼開拓使長官に任ぜられ、北海道開拓事業の基を開き、米国人クラークを聘して札幌の農科大学を創設し、明治二十一年より二十八年までの間に前後四回総理大臣若しくは同代理を勤められ、三十三年六十一歳で薨去になつた黒田清隆伯が、能く他人と争ひ、時に腕力に訴へてまでも我論我流の意見を通さうとせられた方であつたかの如くに思はれる。

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江藤新平, 黒田清隆
デジタル版「実験論語処世談」(11) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.22-30
底本の記事タイトル:二〇七 竜門雑誌 第三三五号 大正五年四月 : 実験論語処世談(一一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第335号(竜門社, 1916.04)
初出誌:『実業之世界』第12巻第24,25号,第13巻第1号(実業之世界社, 1915.12.01,12.15,1916.01.01)