デジタル版「実験論語処世談」(11) / 渋沢栄一

2. 処世上に於ける争ひの利害

しょせいじょうにおけるあらそいのりがい

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 然し、世間には争ひを絶対に排斥し、如何なる場合に於ても争ひをするといふ事は宜しく無い、人若し爾の右の頰を打たば左の頰をも向けよ、なぞと説く者もある。斯んな次第で、他人と争ひをするといふ事は処世上果して利益になるものだらうか、将た不利益を与へるものだらうか。この実際問題になれば、随分人によつて意見が異ふ事だらうと思ふ。争ひは決して排斥すべきで無いと言ふものがあるかと思へば、又絶対に排斥すべきものだと考へて居る人もある。
 私一己の意見と致しては、争ひは決して絶対に排斥すべきものでなく、処世の上にも甚だ必要のものであらうかと信ずるのである。私に対し、世間では余りに円満過ぎるなぞとの非難もあるらしく聞き及んでるが、私は漫りに争ふ如き事こそせざれ、世間の皆様達が御考へになつて居る如く、争ひを絶対に避けるのを処世唯一の方針と心得て居るほどに、さう円満な人間でも無い。
 孟子も「告子章句下」に於て「敵国外患なき者は国恒に亡ぶ」と申されて居るが、如何にも其の通りで、国家が健全なる発達を遂げて参らうとするには、商工業に於ても、学術技芸に於ても、外交に於ても常に外国と争つて必ず之に勝つて見せるといふ意気込みが無ければならぬものである。啻に国家のみならず一個人におきましても、常に四囲に敵があつて之に苦しめられ、その敵と争つて必ず勝つて見せようとの気が無くては、決して発達進歩するもので無い。

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キーワード
処世, 争ひ, 利害
デジタル版「実験論語処世談」(11) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.22-30
底本の記事タイトル:二〇七 竜門雑誌 第三三五号 大正五年四月 : 実験論語処世談(一一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第335号(竜門社, 1916.04)
初出誌:『実業之世界』第12巻第24,25号,第13巻第1号(実業之世界社, 1915.12.01,12.15,1916.01.01)