デジタル版「実験論語処世談」(50) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.386-390

 論語の章句の意味をよく理解する上について、私は早くから一つの希望をもつてをつた。元来この論語の成立ちといふものには種々なる歴史があつて、諸説紛々としてその何れが真に正鵠を得たものであるか判断に苦しむのである。三島先生の講義の総説にも、佐藤一斎先生の言葉を引いて「論語の書は誰の編次する所なるやを知らず、班孟堅は門人相与に輯すといひ、鄭康成は、仲弓、子游、子夏撰定するといひ、柳子厚は、楽正、子春、子思の徒に成るといひ、宋元享は閔子に出づといひ、程子は、有子、曾子の門人に成るといひ、胡明仲は、子思、檀弓纂輯すといふ。先儒の説紛々異同あること此くの如し」といはれてをる如く、論語の成立ちについての先儒の説は色々に分れてをつて何れが正確であるか断定的に知ることはできぬ。
 また論語に、魯論語、斉論語、古論語の三論があつて、その各〻の編次章句は必らずしも同一でなく、時を同じくして纂輯されたものといふことはできぬ。何れにしても論語は孔子が秩序立つて述べられたものを、秩序立つて集録したものではなくして、長い間に亘つて、或は折に触れ所に処して孔子の発せられた説を極めて不秩序に編纂したものである。そこで論語の中には、講演の如きものもあれば訓辞もある。問答の如きもあれば説教の如きものもある。さうかと思ふと孔子よりも年の五十も下である曾子の説が非常に多く載せられてある。曾子は孔門の末年の弟子であつたけれども非常に秀才で学徳よく備はつたから、斯く重く見られ、「士不可以不弘毅」といふ説を始めとして数多く載録されてある。曾子の学徳は別としても、斯く孔子より五十も年下の曾子の説が屡〻載つてをる処を見ると、如何に論語が長い間のことを集録した者であるかといふことが知れる。
 斯く長年に亘つて折に触れての説を集録したものであるから、その間には自ら統一も欠け、前の章句と後の章句とどうしても相合致し兼ねるといふやうなものがある。孔子が門弟子の或るものについて、前には酷く賞められたかと思ふと、後では烈しく非難されるといふこともある。果してその何れが真意であるか知りかねるといふ場合が多いのである。それといふのも、その場合々々の情勢がよく分れば真意を知るに少しも苦む必要はないのであるが、その場合々々の情勢は少しも記録になく、全く情勢を異にしたであらうと思はれる場合に発せられた言葉を章句として訳もなく相並べてあるので、甚だその真意を知るに苦むのである。
さういふ場合は屡々あるので、例へば管仲の如きも、ある場合には非常に称賛されるかと思ふと他の場合に於いて甚しく非難されることがあるのである。即ち憲問第十四の「子路曰く、桓公、公子糾を殺す。召忽は之に死し、管仲は死せず。曰く、未だ仁ならざるかと。子曰く桓公諸侯を九合するに兵車を以てせざるは管仲の力なり。其仁に如かんや、其仁に如かんや」と。又「子貢曰く、管仲は仁者に非ざるか、桓公公子糾を殺すに死すること能はず。又之を相くと。子曰く、管仲桓公を相けて諸侯に覇とし、一たび天下を匡して民今に至るまで其の賜を受く。管仲微《な》かりせば、吾其れ髪を被り袵を左にせん。豈匹夫匹婦の諒を為し、自ら溝瀆に頸れて、之を知らるる莫きが如くならんやと。」以上二章の如きは、何れも管仲の仁であり賢であることを称賛されたものである。然るに溯つて八佾第三を見ると、「子曰く、管仲の器は小なるかな。或人曰く、管仲は倹なるか。曰く、管氏に三帰あり。官事摂せず。焉んぞ倹なることを得ん。然らば則ち管仲は礼を知れるか。曰、邦君樹して門を塞げば、管氏も亦樹して門を塞ぎ、邦君両君の好を為すに反坫あり。管氏にして礼を知らば孰れか礼を知らざらんや」と、酷く管仲の器量の小なることを論じて非難されてをる。之等の両三章を比較して見ると、果して何れが孔子の真意であるか了解に苦むのである。固より之等はその場合々々に臨んで発せられた言葉で、その場合の情勢がよく分れば少しも疑義を抱く要はないのであるが、之れが詳かにされない為に、一見した所では甚しき矛盾を感ずるのである。
 又或る時、孔子が子路、曾晳、冉有、公西華の四人を呼んで各自思ひ思ひの志望を聞かれた時、子路、冉有、公西華の三人は、或は国を治めるとか、或は家を治めるとか、人を支配するとかいつたやうなことを熱心に主張したのであるが、独り曾晳丈けは始終瑟を鼓してをつて、一向何事とも語らうとはせぬ。そこで孔子がたつて遠慮なく語れといはれた時、曾晳の曰く、「莫春には春服既に成り、冠者五六人、童子六七人、沂に浴し、舞雩に風し、詠じて帰らん」と答へたのである。所が孔子はこれを非常に喜ばれて「吾は点(曾晳の名)に与みせん」といはれ、天下国家を一生懸命論じた前三者を哂はれたといふことである。
 これ等は他の多くの章句から推して考へると、甚だ理解し難いやうにも思へるが、丁度この頃世間の多くの人が、或は労働問題であるとか、或はデモクラシーであるとか、間がな暇さへあれば喧しく論じて少しもその身にゆつたりとした余裕綽々たる気分を備へてゐないことを、決して大を為す所以でないとして哂はれ、却て曾晳の如く、天下国家の事は一言もいはずして、沂に浴し、舞雩に風し、詠じて帰らんといふやうな気分を称讃されたのである。
 以上に挙げた例の如き、これを只その章句丈け見たのでは、その真意を捕捉するに一方ならず苦しまねばならぬ。時としては甚しく矛盾したり、全く前後の関係が取れなくて、何うしても安心して断定しかねるといふやうなこともある。
 そこで私が、この論語の章句の意味を理解する上について早くから一つの希望をもつてをるといふのは、各章句の言葉が発せられた場合場合の情勢気分を詳かにしたいといふことである。その場合々々の情勢気分が明かになれば、各章句の真意を理解することが非常に容易くなり、またその理解を徹底して思ひきつた断定もつき、論語に対する信念を一層強固にすることができて誠によいことであると思ふので、色々学者方にもお願ひして、調査研究して貰ふやうに努めてをるのであるが、何しろ少しも記録が残つてゐないので、この目的を達するには非常に骨が折れることだと思ふ。現に論語年譜を作つて下さつた文学博士林泰輔氏にお願ひした処が、努力すれば多少は分るやうになるかも知れぬが、到底思ふやうに充分結構なものはできないといはれてをる。
 又、今現に北京に行つてゐる学者で諸橋轍次といふ人は、工業学校の教員で色々の学問の出来る人であるが、漢学も優れてをられるのでこの人にもかういふ話をしてお願ひしてあるのであるが、その人の最近の手紙によつて見ると、何しろ旧時代の記録は少しも残つてゐないので、さういふことは到底六かしいといつてをられる、誠に残念のことである。
 私は何とかして各章句の発せられた原因とか、その場合の有様、歴史等に就いて詳しく取調べて纏つたものとしたいと思つてをるのであるが、今述べたやうに少しも材料がないので、遺憾とも残念の限りである。さういふ工合で十分歴史を明かにすることができぬので、今次に出て来る章句の如きも、前後と何等の連絡のないものが突然と示されてあるので、甚だ解釈の明瞭を欠くことを恐れるのである。
子曰、好勇、疾貧乱也。人而不仁、疾之已甚乱也。【泰伯第八】
(子曰く、勇を好みて貧を疾めば乱す。人にして不仁なる、之を疾むこと已甚しければ乱す。)
 これは三島先生も「狭量の弊は、己れ乱を作すに非ざれば、則ち人の乱を招くを言ふ」といはれてをる通り、人の寛容度量の小さいのは遂に乱を作すにいたることを戒められたのである。
 即ち、「勇を好み、事を為すに果断なる人にして、其分に安んずること能はず、富貴を羨みて貧賤に居るを悪み厭へば、遂に上を犯して乱を作すに至り、又不仁の人を悪み嫌うて之れを絶ち、身を置く処なきに至らしむるれば、必らず乱を作すに至る」「貧を悪むは天命を知らず、其分に安ずる能はざる狭量の人たるは言を待たず。不仁を疾む人は、其の人の本心は固より善なれども、之れを悪むこと過甚なるは狭量にして人を包容する能はざる者なり。又ある人郭泰の悪人を絶たざるを譏るものあり。泰曰く、人而不仁、疾之已甚則乱也と。王允性剛稜にして悪を疾む、群下甚だ之に附かず、終に李搉郭汜に殺さる」と、詳しく三島先生の講義にあるが、その通りであらうと思ふ。
 これをつづめていふと、或る人が勇気をもつてをつて然も一方に自分が世に不遇であり貧賤であることを酷く悪むといふと遂に乱を作すやうになり、また人が不仁であるのを少しも許容することなく、飽迄も厳しく責め立てるといふことになれば、これまた遂に乱を作すに至るといはれたのである。
 勇気を鼓舞することは必要であつて、人として為すべきことは充分にこれを為してその任務を尽すべきであるが、徒らに分に不相応のこと迄も望んで世の秩序を乱すやうなことがあつてはならぬ。世間往々にして見受けるが如き、自分はその責任を充分に果しもせずして、只声を高くして権利呼ばはりをする如きは、この類であつて、私の賛成し兼ねる所である。また孔子も斯ういふことを意味されて、よく訓戒されたのであると思ふ。
子曰、如有周公之才之美。使驕且吝。其余不足観也已。【泰伯第八】
(子曰く、如し周公の才の美有るも、驕り且つ吝ならしめば、其の余は観るに足らざるのみ。)
 何程才優れたるものがあつても、驕吝であると最早観るに足らぬといはれて、驕吝の弊を戒められたものである。三島先生が「周公の多才にして、智能共に秀で、諸種の技芸にも通じ、皆精妙の域に達せられし人なるが、今この周公と同じ美才ある人にして、若しも己れの才を自負し、又は人の才を嫉み忌むが如きことあらば、其有する美才も用を為さず、独りその才のみならず、其の他のこと凡て観るに足るもの無しと。深く驕吝の弊を戒められたるなり」といはれてをるが、私もこれに少しの異議もないのである。驕慢と、吝嗇との如何に悪むべきかといふことを深く云はんが為に、周公の才を引合ひに出して、周公の才と等しい程の美才があつても、驕と吝とがあれば、少しも用をなさぬといはれたのである。即ち驕と吝とが如何に悪徳であるかといふことを、強くいはれたのである。
 驕と吝との中庸を守るといふことは中々六かしいことで、吝でないから良いと思つてをると非常に驕る癖があつたり、非常につつましやかで珍らしい人だと思つてゐると、余りに吝であつたりして、驕でもなく吝でもなく、といつたその中間の徳を積むといふことは、訳無いやうであるが、容易のことではない、でこれを非常に強く戒められたのである。
 殊に驕ることの如何に悪徳であるかは、大学の章句の中にも、「忠信以て之を得、驕泰以て之を失ふ」といふ言葉が終りの方にあるが、誠にその通りであつて、忠信にして、己れの真心を尽し、欺かず偽らざれば天下をも得ることができるが、若し反対に驕慢にして、泰肆の態度に流るるといふことになれば、また天下を失はねばならぬこととなる。一家のことでもその通りであつて、一生懸命苦しい時分から働いて一家を興しても、そこで安心して驕るといふやうでは、忽ち元の如く無一文とならねばならぬ。
 太閤秀吉の如き、尾張中村の一百姓の子として生れ、非常な英才を以て、遂に天下を一統するといふ例の無い傑業を遂げたのであるが、後には少し安心して遂に驕つたものであるから、子々孫々にまでその地位を保たせるといふ訳には行かなかった。これに反して徳川家康公の如きは、論語もよく読まれ儒学も大いに奨励された位であるから、この驕泰に陥らんことを極力戒められたやうである。それでこそよくあの長い間に亘つて、徳川の天下が栄えたといふことができるのである。
 何れにしても、この吝の悪徳はこれを避けねばならぬ。それが何程の美才を有する学者、実業家、政治家であらうとも、驕慢であり、吝嗇であつたならば、到底その終りを全うすることはできぬ。斯く孔子の戒められたことは尤も千万といはねばならぬ。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.386-390
底本の記事タイトル:三〇三 竜門雑誌 第三八一号 大正九年二月 : 実験論語処世談(第四十九《(五十)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第381号(竜門社, 1920.02)
初出誌:『実業之世界』第17巻第2号(実業之世界社, 1920.02)