デジタル版「実験論語処世談」(13) / 渋沢栄一
『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.45-54
子謂韶。尽美矣。又尽善也。謂武。尽美矣。未尽善也。【八佾第三】
(子、韶を謂ふや美を尽せり、又善を尽せりと。武を謂ふや美を尽せり、未だ善を尽さずと。)
孔子や孟子の政治に就いての教訓は、之を一々悉く我が国情に当て嵌めて行ひ得らるるもので無い。政治はその国の事情であるとか、時代であるとかに応じて、いろ〳〵に形を変へて参らねば相成らぬものである。支那には支那の国体があり、又、我が邦には我が邦で神ながらの国体がある。支那の国体に当て嵌めて説かれた政治上の意見を、仮令、それが孔夫子の教であるにしろ直に之を強ひて、其儘我が邦に実施しようとすれば我が国体に悖る事となり、由々しき大事を惹き起すに至る恐れ無しとせじである。(子、韶を謂ふや美を尽せり、又善を尽せりと。武を謂ふや美を尽せり、未だ善を尽さずと。)
然し孔夫子を以て孟子に比較すれば、孔夫子の政治に対する意見は孟子よりも遥に穏かであるが、孟子の方は頗る激烈で、革命的調子を帯び、到底、我が邦に行ひ得らるべきものでない。孔夫子の政治上の意見が、孟子の如く過激なものでなかつたことは、前に掲げた章句によつても之を窺ひ知り得られるのである。
此の章句は舜帝の楽と武王の楽とを比較し、孔夫子が武王の人物に対して猶ほ飽き足らぬ節ある如く感ぜられて居る意中を明かにしたものと視るべきである。「韶」は舜の制定した楽に与へられた名であるが、舜は尭より禅り受け、平和のうちに帝位に即かれた方である。故に、その制定せられた楽は、音楽としての形式に於ての整斉を得、美の至れるところがあると共に楽の精神にも欠点なく、善の至れるものがあるので、孔夫子の舜の楽を評するや、美尽くし善尽せりと評せられたのである。然るに武王は正しい処のあつた義人たるには相違ないが、紂を伐つて之に代り、兵力によつて王位に即いた人である。是に於てかその制定した楽の「武」には、形式の美に於て欠くるところがなくつても、精神には殺伐なところがある。依て孔夫子の武王の楽を評せらるるや形式は美尽せりであるが、精神には善を尽さぬ到らぬ処があると仰せられ、武王が飽くまで平和主義によつて治国平天下の道を講じなかつた処置に不満の意を漏されたものと思はれる。
孟子の意見なぞは、孔夫子に比較すると、更に一層極端に走つた革命的の傾向を帯びたもので、孟子梁恵王章句下の篇にもある如く、斉の宣王が孟子に対ひ「臣弑其君可乎」(臣にして其の君を弑する可ならんか)即ち、周の武王の如く臣子たる身を以てして其君主たる紂王を弑するが如き事をしても苦しからぬものだらうかと問はれると、孟子は之に対し「賊仁者謂之賊。賊義者謂之残。残賊之人謂之一夫。聞誅一夫紂矣。未聞弑君也。」(仁を賊ふ者は之を賊と謂ひ、義を賊ふ者は之を残と謂ふ。残賊の人は之を一夫と謂ふ。一夫の紂を誅するを聞く、未だ君を弑するを聞かざるなり)と答へられたが、其意は、君を弑するのは悪いに違ひないが、仁義を無視し驕暴を敢てする如き者は仮令其人君王の位にあるも、之を目して以て君王なりと致すべきでは無い。残賊を逞うする一匹夫に過ぎぬのだから君王の位にありながら君王たらず、残賊の行為を肆にして人道を無みせる一匹夫に過ぎぬ紂王は、武王が之を伐つたればとて敢て差支なく、決して不道徳では無い、臣子の道に外れたところが無い、といふにある。斯る革命的の思想は支那の国体の上では通る議論かも知れぬが、日本の国体上から謂へば飛んでも無い危険思想である。苟めにも君主たるものを称して残賊なりと云ひ、或は之を匹夫に等しきものなりなどと視るのは、日本の伝習的民族精神に全然違反する事である。是処が私が孔夫子や孟子の教訓と雖も、政治に関するものは我が貴重なる国体に矛盾する処あり、一々実行し得るものと限らぬと申上ぐる所以である。
之を日本の民族気質の上から評すれば、陳文子の行動は徒に自らを潔うせんとするにのみ汲々たる利己的な意気地無しの沙汰で、日本人ならば他邦に移るどころか、弔ひ合戦の旗でも揚げて君主を弑した崔子を伐つべきものだ、陳文子の行為は決して賞めたものでない。然るに孔夫子は、陳文子を以て仁を弁へたる者であるとまでは仰せにならなかつたが、兎に角清い人物であると賞められた。これも、畢竟するに支那の国体及び民族精神が、日本の国体及び民族精神と相違するの致す処である。然し、大槻文彦博士より大槻磐渓翁の意見なりとして曾て承つたところによると、論語公冶長篇にある「弑斉君」の「弑」も、亦孟子梁の恵王章句下にある「弑其君」の「弑」も、共に「弑した」の意味で無くつて、「弑せんとす」の意味であるから、孔孟は、君を弑する事を大逆視せられなかつた、といふわけでも無いとの事であるが、それにしても、孔夫子や孟子は支那の国体及び民族精神の関係より、我が国人の思ふ如くに、君を弑する事を大逆の行為と思つて居られなかつたらしく考へられる。故に、青年子弟諸君にも能く此の辺の消息を心得居られて、仮令、孔夫子が論語に於て説かれてをる事でも、政治上の意見だけは道徳上の教訓より分離して考へてもらはねばならぬのである。
子曰。里仁為美。択不処仁。焉得知。【里仁第四】
(子曰く、里は仁を美と為す。択んで仁に処らずんば、焉ぞ知を得ん。)
風邪の為め久しく病床にあつたので、遂に止むなく一回論語の談話を休掲することに相成つたのは、私も甚だ遺憾に存ずる処であるが、今回からは第四篇に当る「里仁篇」に移つて御話を致すことにする。然し不相変、私の最も感じて居る点だけを、処々摘出して実際上の経験に照らして申述べるのみである。(子曰く、里は仁を美と為す。択んで仁に処らずんば、焉ぞ知を得ん。)
茲に掲げた章句は「里仁篇」の冒頭にあるもので、その意味を「我が棲む里と定める土地には、仁徳の行はれて立派なものになつて居る処を択むが可い。仁厚の風なき土地に棲むのは、智者の為すべき事では厶らぬ」といつたやうに解釈してしまへば、解釈せられぬでも無いが、斯く解釈しては頗る窮屈になつてしまふ恐れがある。孔夫子の御精神は恐らく斯る窮屈な意味の教訓を与へられようとせるに非ずして何処に棲んでも構はぬから、人の仁徳を我が心の棲む里と致して居らねば相成らぬものであるとの意味だらうかと存ぜられる。
凡そ仁徳に安住して之を我が心の棲む里と致し居る人は、之によつて立派な美しい人格を作りあげ得られ、随つて名利に心を奪はれて其日を暮らす人々の如き醜態を示さずに世渡りのできるものである。名利をのみ追ふに汲々たる人は、他から観ても実に醜いもので、美しい敦厚なところの無いものである。故に、仁徳を心の安住地とせず、仁を身に体せぬ人は決して智者と称し得らるべきものでない。真の智は必ず徳に一致すべきもの、仁に一致すべき筈のものである。徳を離れて真の智は決してあり得べきもので無い。人若し我が心を仁徳の上に据ゑて之に安住すれば、家庭の内にも仁厚の風が行はれ、郷党にも其れが追々と推し及ぼされて之を仁に化することのできるやうになるものである。
総じて人は我が身を思へば、直に家を思ひ、家を思へば同時に家のある故郷を思ふに至るもので、之が実に人情の自然である。この故郷を思ひ郷里を思ふの情の軈て発展したものが愛国心となり、更に博く推し拡げられて世界全般の上に及んだものが、人類を思ひ、人類を愛する博愛の精神ともなるのである。されば人は世界人類の為に尽くし国家同胞の為に尽さんとならば、須らく先づ其本より始めて故郷を愛し、各人それぞれ其分に応じて郷里の為に尽くすべきものであらうかと存ずる。私は及ばずながら斯の精神を懐いて私の生れ故郷の八基村の為に尽して居る積である。それに就ては、できる丈け仁厚の風を永く郷里に行はるるやうに致し置きたいものと思つて只管之に心懸けて居る。
敢て自分の徳や功労を誇るわけでも何でも無いが、私の生家の者も能く私の意を体し、村内の者に率先して純朴の風を守り、小学教育が良く行はれて居るので八基村は仮令完全無欠の理想郷で無いにしても理想郷に近い村で、忠孝利貞の道が廃れず、村内の者は一般に孝悌を重んじ、長幼相済け、漫りに小さな功を争はず、新しい人が起つて、是まで勢力を得て居つた人を倒さうとする如き小ゼリ合ひなどは致さぬやうに相成り、仁厚の美風が漂つて居るかの如くに思はれる。都会に住み郷里を離れて居る者でも、苟も先輩とか長老とか郷党の者より推される身分になつた者は、郷里のことにも多少意を注ぎ、純朴の風を保存させ、孝悌の美風を永く行はしむるやうに之を誘掖し、殊に小学教育を発達さする事に、尽力なさるが宜しからうと私は思ふのである。何と申しても、片田舎で最も大事なものは小学校である。これが総てに於て一村の土台になるのであるから、小学教育は決して忽に致すべきものでは無い。
如何にも小さな村のことゆゑ、今日までに人材とか人傑とか申すものは、血洗島からも亦、八基村からも出て居らぬ。さう申すと少し嗚呼がましいやうに聞えるかも存ぜぬが、見渡したところ、私だけの者すら此処当分は故郷より出さうにも思はれぬのである。私が故郷から是まで出たうちでは一番大頭であるらしい。然し、私の妹の婿の長男である逓信省技師の渋沢元治は、博士といつても当今となつては掃くほどに多くある時節柄故、日本として敢て外国に誇るに足るほどの学者で無いかも知れぬが、兎に角、工学博士になつて居るので、一小農村に過ぎぬ血洗島としては、多少誇るに足るべき人材であらうかと思はれる。それから、私が少壮の頃に色々と恩義を受けた彼の尾高惇忠の子息の尾高次郎氏も、素より人傑などと申上ぐるほどのものでは無いが、血洗島から出た人としては相当の人物で、現に第一銀行の監査役を勤めて居る。私が郷里の為に尽して居る事は只今までに申上げた小学校の外に猶ほ一つある。
血洗島の鎮守は、諏訪神社と申すのだが、昔からササラ舞と称して祭礼には獅子舞をする古俗がある。私もまだ若くつて郷里に在つた頃には、矢張村の若い者と一緒になつて此の獅子舞を奉つて廻つたものである。斯る古俗は一見甚だ愚の如くに考へられもするが、一村の純朴なる風俗を維持しようとするには、古俗を保存してゆくやうにするのが必要の事であると思つたので、維新後一時廃れて居つたササラ舞を再興して、再び獅子舞をする事のできるやうに私が世話を焼いてやつたのである。
それにつけても維新後荒廃して居つた鎮守の社殿を立派にし、村の者をして神社に対し崇敬の念を懐かしむるやうにするのが第一の急務であると稽へたので、私が出金して新たに社殿を建築してやる事にした。大して巨な金額でも無いから、私一人で新築費を全部支弁しても可かつたのであるが、今現に村の内に住つて居らぬ他所に在るものが全部の費用を支出して建てたといふ事になれば、折角村の者の共同心を発達させる為の鎮守の神社も、共同心を発達させる為の利益に立たず、他所のものが独力で建ててくれたといふので、他所の人の物であるかの如くに村の者をして思はしむる弊でも生じては、甚だ宜しく無い事だと存じ、社殿新築費のうち半分だけを私が出金し、残り半分を血洗島の者たちに出金させ、之によつて目出度く新築を竣成したのである。小さな村落の神社のこと故、堂々たる社殿だなぞとは素より謂ひかね、実に小さなものではあるが、小さな村落の神社としては相当に立派なものであるらしく思はれる。
近年東京では日比谷の大神宮様であるとか、或は麻布や池の端の出雲大社分祠であるとかで、神前結婚式を挙ぐる事が大層行はれるやうになつて来て居る。私はこれは実に結構な良い風俗で、結婚の神聖を保ち、容易に離縁なぞを致さず、夫婦末永く目出度く暮してゆくやうになる上にも、好影響のあるものだと存ずるので、単に東京のみならず、全国到る処に斯の風が行はるることに致したいと思うて居る。依て血洗島の諏訪神社に此度私が拝殿を建ててやることに致したに就ては、愈よ出来あがつたら、部落の者の結婚式は総て其の拝殿で挙げることにせよと申し聞かせたのである。郷里の者とても素より之に異存のありさうな筈なく、今後は血洗島の結婚式は総て諏訪神社の拝殿で行ふことに決めたのであるが、拝殿と申しても決して大きなものでは無い。然し、血洗島の部落は総戸数が僅に五六十軒位のもの故、結婚式を神社の拝殿で挙げることにしたからとて、集る人は三十人ぐらゐのものだらう。それ丈けの人数が寄るのには今度の拝殿でも狭く無い積である。
かく、神前結婚式を挙げ得らるる拝殿までが、神社に出来るやうになつたので、血洗島の者は孰れも非常に悦び、「御諏訪様も嘸ぞ御悦びだらう」と謂つてくれるが、之を聞く私も亦、非常に悦ばしいのである。世の中には楽みの種類も色々あるが、衆と共に楽むほどの大なる悦びは他に於て兎ても贏ち得らるるものではない。
子曰。富与貴。是人之所欲也。不以其道。得之不処也。【里仁第四】
(子曰く、富と貴きとは是れ人の欲する所なれども、其道を以てせざれば、之を得るも居らざるなり。)
茲に掲げた章句は、富貴は万人の欲し求むるところのものであるが然し、君子は決して不正当なる手段によつて富貴を獲得せぬものであると、孔夫子は教へられたのであらうかと存ずるのである。即ち、富貴は決して悪いもので無いが、之を得る手段に就てだけは慎重の上にも慎重の態度に出でねばならぬものだといふのが、此章句に顕れた孔夫子教訓の御趣旨であらうかと想はれるのでる。(子曰く、富と貴きとは是れ人の欲する所なれども、其道を以てせざれば、之を得るも居らざるなり。)
然し、従来の儒者のうちには、此の章句の意味を斯く率直に解釈せずして、「人」を「悪人」の意味に解し、「富貴は悪人の欲し求むるところのもので、之を得るには正道に外れた方法を以てしなければならぬもの故、君子は仮令、富貴が舞ひ込んで来たからとて、直ぐ之を離れて棄ててしまうものである」との趣意に解釈し、富貴を君子の近づくべからざるものであるかの如くに説いた者が少くない。殊に、斯る曲解は宋儒に多かつたやうに思はれるのである。
然るに此の章句を宋儒の輩が曲解せる如くに、苟も君子たるものは何が何でも、富貴に近づいてはならぬ、一旦、富が手に這入つても、必ず直に之を棄ててしまはねばならぬものだ、といふ意味に解釈すれば、如何に努めても文王の政を布いて博く民に施し能く衆を救ふわけには参りかねる事になる。されば人たるものは富を汚らはしいもの穢いものであると視るやうな事をせず、正しき道によつて之を獲得するやうに心懸くべきものである。富貴を得さへすれば、人は道徳より離れねばならぬものだなぞと考へて、富を蔑視する如きは誠に宜しく無い心懸けである。人は如何に富貴を得ても、その心懸けさへ確であれば、清貧の境涯に於けると等しく、立派に道徳の上に立つて処世の能きるもので[あ]る。又正道によつて獲得した富は容易に其人の手中から逃げて往かず、永く留まつて居るものである。
積善の家に余慶ありとは、古くから人口に膾炙する語であるが、三井にしても亦、大阪の鴻池とか酒田の本間などにしても、孰れも旧家として今日猶ほ存続するを得る所以は、一に其祖先が徳を積み、富を得るに正当の道を以てしたからである。私は二十年ばかり前に、三井家から色々家政上の事に就て相談を受けたものであるから、多少は三井家の今日ある所以の歴史を承知して居る積である。
さて、三井家中興の主と称せらるる人に三井宗竺といふのがある。元和九年(二百九十三年前)に今の日本橋駿河町に三越呉服店の前身たる越後屋呉服店を開いたのである。なぜ「越後屋」と称ばれたかと申すに、三井家の近い祖先に、越後守高次といふ御仁があつたからだとの事である。この越後守高次は、御堂関白道長から出たものでは無い。佐々木高綱の後裔で三井家の養子になつたものでる。三井家が伊勢に遷る前までは、近江の鯰江で一城を持つて居つたのであるが、関白道長の四男より五代の孫に当る右馬助信生といふ人の時代には、大和国三井村を領して久しく其処に住したことがあるので、姓を三井と改め、この三井村より近江に遷り、それから伊勢の安濃郡一色村に遷り、次で松坂に遷つたのである。三井家も目今では十一軒に分れて居るが、斯く家を分けたのは、宗竺と申さるる三井家中興の祖と仰がるる人で、当時は六軒に分けられたものであつた。宗竺の制定した家憲の第一に「単木は折れ易し」とあるが、各分家が協力すれば、仮令一部に欠点があつても、三井家の家運を永久に安泰ならしめ得るものと考へられたからだらう。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.45-54
底本の記事タイトル:二一〇 竜門雑誌 第三三七号 大正五年六月 : 実験論語処世談(一三) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第337号(竜門社, 1916.06)
初出誌:『実業之世界』第13巻第6,8,9号(実業之世界社, 1916.03.15,04.15,05.01)
底本の記事タイトル:二一〇 竜門雑誌 第三三七号 大正五年六月 : 実験論語処世談(一三) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第337号(竜門社, 1916.06)
初出誌:『実業之世界』第13巻第6,8,9号(実業之世界社, 1916.03.15,04.15,05.01)