デジタル版「実験論語処世談」(13) / 渋沢栄一

1. 孔子教と国体論

こうしきょうとこくたいろん

(13)-1

子謂韶。尽美矣。又尽善也。謂武。尽美矣。未尽善也。【八佾第三】
(子、韶を謂ふや美を尽せり、又善を尽せりと。武を謂ふや美を尽せり、未だ善を尽さずと。)
 孔子や孟子の政治に就いての教訓は、之を一々悉く我が国情に当て嵌めて行ひ得らるるもので無い。政治はその国の事情であるとか、時代であるとかに応じて、いろ〳〵に形を変へて参らねば相成らぬものである。支那には支那の国体があり、又、我が邦には我が邦で神ながらの国体がある。支那の国体に当て嵌めて説かれた政治上の意見を、仮令、それが孔夫子の教であるにしろ直に之を強ひて、其儘我が邦に実施しようとすれば我が国体に悖る事となり、由々しき大事を惹き起すに至る恐れ無しとせじである。
 然し孔夫子を以て孟子に比較すれば、孔夫子の政治に対する意見は孟子よりも遥に穏かであるが、孟子の方は頗る激烈で、革命的調子を帯び、到底、我が邦に行ひ得らるべきものでない。孔夫子の政治上の意見が、孟子の如く過激なものでなかつたことは、前に掲げた章句によつても之を窺ひ知り得られるのである。
 此の章句は舜帝の楽と武王の楽とを比較し、孔夫子が武王の人物に対して猶ほ飽き足らぬ節ある如く感ぜられて居る意中を明かにしたものと視るべきである。「韶」は舜の制定した楽に与へられた名であるが、舜は尭より禅り受け、平和のうちに帝位に即かれた方である。故に、その制定せられた楽は、音楽としての形式に於ての整斉を得、美の至れるところがあると共に楽の精神にも欠点なく、善の至れるものがあるので、孔夫子の舜の楽を評するや、美尽くし善尽せりと評せられたのである。然るに武王は正しい処のあつた義人たるには相違ないが、紂を伐つて之に代り、兵力によつて王位に即いた人である。是に於てかその制定した楽の「武」には、形式の美に於て欠くるところがなくつても、精神には殺伐なところがある。依て孔夫子の武王の楽を評せらるるや形式は美尽せりであるが、精神には善を尽さぬ到らぬ処があると仰せられ、武王が飽くまで平和主義によつて治国平天下の道を講じなかつた処置に不満の意を漏されたものと思はれる。

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デジタル版「実験論語処世談」(13) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.45-54
底本の記事タイトル:二一〇 竜門雑誌 第三三七号 大正五年六月 : 実験論語処世談(一三) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第337号(竜門社, 1916.06)
初出誌:『実業之世界』第13巻第6,8,9号(実業之世界社, 1916.03.15,04.15,05.01)