デジタル版「実験論語処世談」(13) / 渋沢栄一

3. 大槻磐渓の意見

おおつきばんけいのいけん

(13)-3

 之も論語の公冶長篇に載せられた章句だが、孔夫子の御弟子の子張が、「崔子弑斉君。陳文子有馬十乗。棄而違之。至於他邦。則曰。猶吾大夫崔子也。違之。之一邦。則又曰。猶大夫崔子也。違之。何如。」(崔子、斉の君を弑す。陳文子馬十乗あり。棄てて之を去る。他邦に至り則ち曰く、猶ほ吾が大夫崔子の如きなりと、之を去る。一邦に行き則ち又曰く、猶ほ吾が崔子の如きなりと、之を去る。如何)との問を孔夫子にかけ、斉に崔子と陳文子といふ二人の大夫があつたが、その中の崔子が主君を弑したので、陳文子は斯る賊子と邦を同じうするを愧ぢ、十乗即ち馬四十頭ほどの財産を棄てて他の邦に移り、更に又他の邦に移つて見たが至る所に崔子の如き賊子が居るので、二度目に赴いた邦からも去つたといふ。此陳文子の人物は如何なるものであらうかと尋ねられたのである。之に対し孔夫子は「清矣」(清し)即ち陳文子は清い人物であると御答へなされたのである。すると、子張は重ねて「仁矣乎」(仁なるか)即ち「然らば陳文子は仁を弁へたる人であらうか」との問を発せられた。孔夫子は之に向つて「未知。焉得仁。」(未だ知らず、焉ぞ仁を得ん)、即ち陳文子の心事が果して公明正大一点の私なかりしや否やは、まだ知ることができぬによつて仁を弁へて居つたとまでは言明しかねると答へられて居る。
 之を日本の民族気質の上から評すれば、陳文子の行動は徒に自らを潔うせんとするにのみ汲々たる利己的な意気地無しの沙汰で、日本人ならば他邦に移るどころか、弔ひ合戦の旗でも揚げて君主を弑した崔子を伐つべきものだ、陳文子の行為は決して賞めたものでない。然るに孔夫子は、陳文子を以て仁を弁へたる者であるとまでは仰せにならなかつたが、兎に角清い人物であると賞められた。これも、畢竟するに支那の国体及び民族精神が、日本の国体及び民族精神と相違するの致す処である。然し、大槻文彦博士より大槻磐渓翁の意見なりとして曾て承つたところによると、論語公冶長篇にある「弑斉君」の「弑」も、亦孟子梁の恵王章句下にある「弑其君」の「弑」も、共に「弑した」の意味で無くつて、「弑せんとす」の意味であるから、孔孟は、君を弑する事を大逆視せられなかつた、といふわけでも無いとの事であるが、それにしても、孔夫子や孟子は支那の国体及び民族精神の関係より、我が国人の思ふ如くに、君を弑する事を大逆の行為と思つて居られなかつたらしく考へられる。故に、青年子弟諸君にも能く此の辺の消息を心得居られて、仮令、孔夫子が論語に於て説かれてをる事でも、政治上の意見だけは道徳上の教訓より分離して考へてもらはねばならぬのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(13) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.45-54
底本の記事タイトル:二一〇 竜門雑誌 第三三七号 大正五年六月 : 実験論語処世談(一三) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第337号(竜門社, 1916.06)
初出誌:『実業之世界』第13巻第6,8,9号(実業之世界社, 1916.03.15,04.15,05.01)