14. 三井家今日の由来
みついけこんにちのゆらい
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積善の家に余慶ありとは、古くから人口に膾炙する語であるが、三井にしても亦、大阪の鴻池とか酒田の本間などにしても、孰れも旧家として今日猶ほ存続するを得る所以は、一に其祖先が徳を積み、富を得るに正当の道を以てしたからである。私は二十年ばかり前に、三井家から色々家政上の事に就て相談を受けたものであるから、多少は三井家の今日ある所以の歴史を承知して居る積である。
さて、三井家中興の主と称せらるる人に三井宗竺といふのがある。元和九年(二百九十三年前)に今の日本橋駿河町に三越呉服店の前身たる越後屋呉服店を開いたのである。なぜ「越後屋」と称ばれたかと申すに、三井家の近い祖先に、越後守高次といふ御仁があつたからだとの事である。この越後守高次は、御堂関白道長から出たものでは無い。佐々木高綱の後裔で三井家の養子になつたものでる。三井家が伊勢に遷る前までは、近江の鯰江で一城を持つて居つたのであるが、関白道長の四男より五代の孫に当る右馬助信生といふ人の時代には、大和国三井村を領して久しく其処に住したことがあるので、姓を三井と改め、この三井村より近江に遷り、それから伊勢の安濃郡一色村に遷り、次で松坂に遷つたのである。三井家も目今では十一軒に分れて居るが、斯く家を分けたのは、宗竺と申さるる三井家中興の祖と仰がるる人で、当時は六軒に分けられたものであつた。宗竺の制定した家憲の第一に「単木は折れ易し」とあるが、各分家が協力すれば、仮令一部に欠点があつても、三井家の家運を永久に安泰ならしめ得るものと考へられたからだらう。
- デジタル版「実験論語処世談」(13) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.45-54
底本の記事タイトル:二一〇 竜門雑誌 第三三七号 大正五年六月 : 実験論語処世談(一三) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第337号(竜門社, 1916.06)
初出誌:『実業之世界』第13巻第6,8,9号(実業之世界社, 1916.03.15,04.15,05.01)