デジタル版「実験論語処世談」(13) / 渋沢栄一

4. 「里仁」の意義は何ぞ

りじんのいぎはなんぞ

(13)-4

子曰。里仁為美。択不処仁。焉得知。【里仁第四】
(子曰く、里は仁を美と為す。択んで仁に処らずんば、焉ぞ知を得ん。)
 風邪の為め久しく病床にあつたので、遂に止むなく一回論語の談話を休掲することに相成つたのは、私も甚だ遺憾に存ずる処であるが、今回からは第四篇に当る「里仁篇」に移つて御話を致すことにする。然し不相変、私の最も感じて居る点だけを、処々摘出して実際上の経験に照らして申述べるのみである。
 茲に掲げた章句は「里仁篇」の冒頭にあるもので、その意味を「我が棲む里と定める土地には、仁徳の行はれて立派なものになつて居る処を択むが可い。仁厚の風なき土地に棲むのは、智者の為すべき事では厶らぬ」といつたやうに解釈してしまへば、解釈せられぬでも無いが、斯く解釈しては頗る窮屈になつてしまふ恐れがある。孔夫子の御精神は恐らく斯る窮屈な意味の教訓を与へられようとせるに非ずして何処に棲んでも構はぬから、人の仁徳を我が心の棲む里と致して居らねば相成らぬものであるとの意味だらうかと存ぜられる。
 凡そ仁徳に安住して之を我が心の棲む里と致し居る人は、之によつて立派な美しい人格を作りあげ得られ、随つて名利に心を奪はれて其日を暮らす人々の如き醜態を示さずに世渡りのできるものである。名利をのみ追ふに汲々たる人は、他から観ても実に醜いもので、美しい敦厚なところの無いものである。故に、仁徳を心の安住地とせず、仁を身に体せぬ人は決して智者と称し得らるべきものでない。真の智は必ず徳に一致すべきもの、仁に一致すべき筈のものである。徳を離れて真の智は決してあり得べきもので無い。人若し我が心を仁徳の上に据ゑて之に安住すれば、家庭の内にも仁厚の風が行はれ、郷党にも其れが追々と推し及ぼされて之を仁に化することのできるやうになるものである。

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デジタル版「実験論語処世談」(13) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.45-54
底本の記事タイトル:二一〇 竜門雑誌 第三三七号 大正五年六月 : 実験論語処世談(一三) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第337号(竜門社, 1916.06)
初出誌:『実業之世界』第13巻第6,8,9号(実業之世界社, 1916.03.15,04.15,05.01)