デジタル版「実験論語処世談」(1) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.638-645

本篇は青淵先生が雑誌「実業之世界」の懇嘱に由り講話せられたるものにて、同社に於ては毎号続載する筈なりと云ふ。(編者識)
 何故私が孔夫子の論語に親み、之を服膺して今日の如く日常生活の規矩準縄と做すまでに相成つたかは、或は世間の方々の不思議に思はるゝ処であらう。それに就ては、先づ幼年時代に私が受けた教育の順序から申述べねばならぬ。
 維新前に於ける教育は、何地とも主として漢籍に依つたものであるが、江戸表などでは初めに「蒙求」とか乃至は又名家文を教へたりしたやうにも聞き及ぶ。然し、私の郷里(今の埼玉県)では先づ初めに「千字文」「三字経」の如きものを読ましめ、それが済むだ処で四書五経に移り、名家文は其の後になつてから漸く教へたもので、「文章軌範」とか「唐宋八大家文」の如きものを読み、史籍の「国史略」「史記列伝」の如きものをも此間に於て学び、「文選」でも読めるまでになればそれで一通りの教育を受けた事にせられたものである。
 私は七歳の時に先づ実父より「三字経」を教へられ、明けて八歳となるに及んで、私より十歳ばかり年長であつた従兄の手で、大学、中庸、論語、孟子などの四書を教へてもらふ事になつたが、私に四書を教へて呉れた這の従兄の妹を、私は後年に至り娶つて妻としたのである。私の論語に親むに至つた抑〻の発端とでも申すべきものはまづ以て斯くの如くである。
 同じく孔子の教を遵奉するにしても、強ひて単り論語に拠る必要は無からう、大学は如何、中庸は如何との念を懐かるゝ方々も無いでなからうが、大学は其冒頭にも、
 古之欲明明徳於天下者。先治其国。(古の明徳を天下に明にせんと欲する者は、先づ其の国を治む)
 とあるほどで、治国平天下の道を説くのを主眼とし、それから逐次斉家修身に及び、何れかと申せば政治向に関する教訓が主である。中庸の説く処には又一段高い立脚地に立つて観察した意見が多く
 致中和、天地位焉。万物育焉。(中和を致せば天地位し万物育す)
とか、
 鳶飛戻天、魚躍于淵(鳶飛んで天に到り、魚淵に躍る)
などの句があるほどで、何れかと申せば哲学的である。修身斉家の道には稍〻遠い恨みがある。
 然し論語となると、悉く是れ日常処世の実際に応用し得る教とでも申すべきもので、朝に之を聞けば夕べに直ぐ実行し得らるゝ道を説いてある。殊に「郷党」篇の如きに於ては、寝るから起るまで飲食の事より衣服の末までも及び、坐作進退、礼儀の小節に亘つて殆ど漏らす処が無いくらゐである。是れ、私が孔夫子の教を遵奉せんとするに当り、大学、中庸に拠らず特に論語を服膺し、之に悖らざらん事を孜々として是れ努むる所以である。私は論語の教訓を守つて暮らしさへすれば、人は能く身を修め家を斉へ、大過無きに庶幾き生涯を送り得られるものと信ずる。
 世間には、大徳の禅師を屈請して禅門の提唱を聴く篤志の方々もあらせられるが、私は昨今宇野先生に御依頼申して家族の者と打ち揃ひ毎月一回づつ論語の講義を拝聴する。然し、私は単に講義を聴いて之を楽みにするといふ丈けではない。勿論、及ばぬ勝ちな不肖の身故如何に努めても及ばぬ処も多いには相違ないが、論語にある孔夫子の遺教は一々之を身に体し、及ばぬながらも之が実践躬行を心懸け、又之を実践躬行して来た意気である。此の意味に於て私が論語に対するのは、世間の方々と多少その趣を異にして、論語の章句をそのまゝ、今日まで処世の実際に施すに力め来つたものと、過言ながら言ひ得ようと思ふ。
 私は、明治六年に官を罷めて実業に身を委ねる事になつたのであるが、畢竟するに国を強くするには国を富まさねばならぬ、国を富ますには、商工業を隆盛にせねばならぬものと信じたからである。当時はまだ「実業」なる言葉がなく、之を「商工業」と称したものであるが私は商工業を隆盛にするには小資本を合して大資本とする合本組織、即ち会社法に拠らねばならぬものと考へ、この方面に力を注ぐことにしたのである。
 さて愈〻会社を経営する事になれば、まづ第一に必要なるものは人である。明治の初年の頃、政府が親しく肝煎をして創始めた会社に為替会社とか、開拓会社とか云ふ如きものもあつたが、それが皆な良好く続かず失敗に終つたのは、当事者に其人を得なかつたからである。会社の当事者に其人を得、事業を失敗させずに成功しようとすれば、其人をして拠らしむるに足る或る規矩準縄が無ければならぬ、又私とても拠るべき規矩準縄が無ければならぬのに気が付いたのである。
 当時はまだ耶蘇教は普及するまでに至らなかつたので、私は素より耶蘇教の如何なるものであるかを知るべき由も無かつたのであるが、仏教に関しても知るところが甚だ狭かつたから、私は実業界に身を委ぬるに就て則とすべき規矩準縄を耶蘇教や仏教より学ぶわけに参らなかつたのである。然し、儒教即ち孔夫子の教ならば無学ながら私も幼少の頃より親しんで来たところである。殊に論語には、日常生活に処する道を一々詳細に説かれてあるので、之に拠りへさすれば万事に間違ひなく、何事か判断に苦むやうな場合が起つても、論語といふ尊い尺度を標準にして決しさへすれば必ず過ちをする憂の無いものと信じ明治六年実業に従事するやうになつて以来は、斯る貴い尺度があるのに之を棄てて何に拠らうかと迷ふ必要は無いと思ひつき、眷々論語を服膺して之が実践躬行に努めることにしたのである。
 論語には実業家の取つて以て金科玉条となすべき教訓が実に沢山にある。仮令へば「里仁」篇の
 富与貴。是人之所欲也。不以其道。得之不処也。貧与賤。是人之所悪也。不以其道。得之不去也。(富と貴きは是れ人の欲する所なれども、其道を以てせざれば之を得るも処らず。貧と賤しきとは是れ人の悪む所なれども、其道を以てせざれば之を得るも去らず)
の如き即ち其一例で、実業家の如何にして世に立ち身を処すべきものたるかを、明確に説き教へられたものである。又同じく「里仁」篇の中に
 放於利而行。多怨。(利によりて行へば怨み多し)
 などの句がある。其他、一々枚挙に遑なきほどで、実業家の日常生活に於て遵守すべき教訓が実に論語には多いのである。
 かくまで実業家の拠つて以て則とするに足るべき教訓が論語などに充ち満ちて居るに拘らず、維新前は農工商等の実業に従事するものに毫も文字の素養なく、越後屋だとか大丸だとかの大きな老舗にでもなると、文字の知識ある者を角い文字を知つてるからと称し、何んとなく之を危険視して店員に採用せず、文字の素養が無い者ばかりを使用してたものである。随つて、角い文字で書かれた論語、其他修身斉家に必要なる典籍の如きも士大夫の間にのみ多く読まれて、実業家の間には読まれなかつたものである。
 その結果は更に悲しむべき現象になり、素と実践躬行の為に説き遺された孔夫子折角の教訓と、実際の社会に必須の要素たる実業との間に殆ど何の関渉聯絡をも存せざるまでに至り、論語の如きも士大夫にばかり読まれて、実業家が日常その稼業に処する上の指南車となり得ぬものとなり、知と行とが別々になつてしまつたのである。
 維新後、外国との交通も開けて参つたに就ては、商工業者の品位を高めねばならぬことになつたのであるが、それには知行を一致さして商工業等の実業に従事する者にもその拠るべき道を知らしめ、斯の道によつて、実際の商工業を営むやうになさしめねばならぬものと私は感じたのであるが、この目的を達するには、維新前まで士大夫の間にのみ読まれ、その極、行を離れて徒に章句の末を研究する弊に陥つてしまつたから、私は孔夫子の経典を実際の実業に結びつけて読ましむるやうにし、之を実践躬行するのが何よりであると考へ、最も実際に適切な道を説かれてある論語を私も読み、又他の実業家にも読んでもらひ、知行合一によつて実業の発達を計り、国を富まし国を強くし、天下を平かにするに努むべきものだと信じたのである。私が論語を服膺し、その教訓を実地に行ふ事に心懸くるやうになつた一つの因縁は実に這個にある。実業を何時も政府の肝煎にばかり任せて置いては、決して発達せぬ、民間に品位の高い知行合一の実業家が現はれ、卒先之に当るやうにせねばならぬものであると感じた事が、私をして論語の鼓吹者たるに至らしめたものだ、とも亦云ひ得ると思ふ。
 論語の如何なるものであるかを説く前に、一つ考へて置かねばならぬ事は、孔子の教即ち儒教なるものは宗教なりや否やの点である。目下のところ我が邦に於て之に対する意見が二派に別れて居る。文学博士井上哲次郎氏は孔子教は半ば宗教で、少くとも宗教らしい処のものであると主張せられるが、之に反対して法学博士阪谷芳郎は、否な全然宗教ではない、孔夫子は単に実践道徳を説かれたものに過ぎぬと論駁し、今なほ論戦酣で、何れとも決定せられたわけでない。
 論語「子罕」篇に、
 天之将喪斯文也。後死者不得与於斯文也。天之未喪斯文也。匡人其如予何。
(天の将に斯の文を滅ぼさんとするや遅れて死する者は斯の文に与ること得ず、天の未だ斯の文を亡さゞるや匡人夫れ予を如何せむ)
 とあるが、この章句にある「斯文」とは、孔夫子が之を其当時の世に伝へ、又後世に遺さんとせられた「文王の道」を指したもので、この一章の意は聖人の道を滅ぼさんとするのが若し天意ならば、予(孔夫子)或は匡の人々の手によつて殺さるゝかも知れぬ。然し予(孔夫子)が未だ其事業を卒らぬうちに殺されてしまへば、後世の者は聖人の道たる「斯文」を知り得られない事になるから、聖人の道を滅ぼしたく無いとの天意のある中は、「斯文」を伝ふるを以て天職とする予(孔夫子)は、決して匡の人々の手によつて殺さるべき筈のものでないといふにある。この処に、孔夫子が天に対する信仰のあつた事がほの見えて居る。
 「子罕」篇の外にも、なほ孔夫子の天に就て説かれた所が論語の処々にある。「為政」篇の「五十而知天命」(五十にして天命を知る)。「八佾」篇の「獲罪於天。無所祷也」(罪を天に獲れば祷る所無し)。「公冶長」篇の「夫子之言性与天道。不可得而聞也」(夫子の性と天道とを言ふは得て聞くべからず)。「雍也」篇の「予所否者。天厭之。天厭之」[(]予の否む所の者、天之を厭《す》てん。天之を厭《す》てん)。「述而」篇の「天生徳於予。桓魋其如予何」(天、徳を我に生ず、桓魋――孔子を殺さんとせる人――夫れ我を、如何にせん)。「泰伯」篇の「尭之為君也。巍々乎唯天為大」(尭の君たるや巍々乎たり唯天を大なりとす。)「憲問」篇の「不怨天。不尤人。下学而上達。知我者其天乎」(天を怨みず人を咎めず、下学して上達す、我を知る者は夫れ天か)。「陽貨」篇の「天何言哉。四時行焉。百物生焉。天何言哉」(天何をか言はんや、四時行はれ、百物生ず、天何をか言はんや)など、論語全篇を通じ、天に言及せられたところが九ケ所ばかりある。殊に「八佾」篇にある「罪を天に獲れば祷る処無し」の語に徴して観ると、孔夫子が天を信じ又これが孔夫子の信仰であつた事は明かで、孔子教は方に一の宗教を以て観るべきものだとは井上博士の主張せらるゝ処である。
 之に対し、阪谷博士は、総じて宗教には礼拝祈祷等の形式を具備せねばならぬのを法とするに拘らず、孔子教には此の形式が無い。故に孔子教は目して以て宗教なりと云ひ得られるものだと反駁するのであるが、私は今俄に其の何れが是であるか非であるかを申述べ得ざるにしても、孔子教を以て宗教であるとは思つても居らぬ。実際、世に処するに当つての規矩準縄を説き示されたものとして孔子教を遵奉し、論語によつて之が実践躬行を努めつゝあるのである。
 孔夫子は「史記世家」にもある如く、今を去る約二千四百六十五年前、魯の襄公二十二年に魯の昌平郷と名づけらるゝ里に生れられたものである。初めは、倉庫掛乃至は又畜産等の役人になられたが、成績何れも見るべきものがあらせられた。三十五歳の頃、生国の魯が乱になつたので、昭公が斉に奔られた後を追うて同じく斉に赴かれたところを、斉の景公が抜擢して大いに用ひようとしたが、反対者があつて用ひらるゝことが出来なかつたので、再び生国の魯に帰られたものである。然るに四十三歳に及ばれた時、魯は季氏の天下となつた。この時に、孔夫子は季氏に仕へようとせられたのであるが、偶々陽虎と称する者が反して又国が乱れたので、遂に仕へずに退かれたのである。ところが五十一歳に成られた時に、季氏に反いて起つた公山不狃が亦孔夫子を召すことになつた。この時も亦孔夫子は往かうとせられたのだが、遂に行かれなかつたとある。その後も孔夫子は諸国を遍歴し、諸公に仕へて見られたが、何れも我が志を行はしむるに足る処が無かつたので、又生国の魯に戻られたのが哀公の十一年、齢方に六十八歳の時にあらせらる。それから七十三歳で逝かれるまでは全く仕官の念を断たれて、門弟を教育し道を伝へることにのみ意を注がれたのであるが、六十八歳になられるまでは志が主として政治方面にあつて、周の時代を復興し、王道を天下に布きたいといふのに熱心であらせられたものゝ如く察し得らるゝのである。
 大聖人の孔夫子ともあらうものが、五十にして既に天命を知られた後の五十一歳になられてからまで、魯の反臣たる季氏に反いて更に起つた不狃に如何に召されたからとて往かうとされたのは、恰も名分を弁へざるものゝ如くにも思はれ、其処此処と到る処に仕へ廻つた処を見ると、又、焦せられてるやうにも思はれる。当時の周囲を少し注意して見廻しさへすれば、諸公の中にも士大夫のうちにも、かの管仲を用ひて其志を遂げしめた桓公の如き明君が無いくらゐの事は理解りさうな筈だ、これが理解らずに処々に遍歴せられたものとすれば、孔夫子は如何にも眼の見えぬ人であつたかの如くにも思はれる。
 孔夫子は素より之を十分に承知して居られたらうが、斯く志を為すに恋々たる如くあらせられたのは、是れ孔夫子が其志に忠なるの致すところで、何処でも構はぬから我が志によつて、王道の範を布かしめてくれる処がありさへすれば一つ之を行つて見たい、今度こそは我が志を容れて之を遂げしめてくれるだらう、と周の時代を復興して民の鼓腹する状態を実現したいとの勃々たる熱心があつた為めである。孔夫子の情は実に察するに余りある。孔夫子の志は殊に生国の魯をして再び周の盛時に還らしめんとするにあつたので、孟子の伝ふる処によれば、孔夫子の魯を去る時には、志が行はれぬ為に他国を去る時の如く平然たる能はず、怩々として如何にも去り難さうにして去られたものであるとの事である。
 老いて六十八歳になるまでも政治上の事に恋々せず、早く見切りをつけて門弟子の教育に意を注ぎ、道を伝へるのに力を尽してた方が孔夫子の為に利益であつたらうにと思はるゝ方々があるやうに、私なぞにも余り世間の事に関渉せず、既に老人のことであるから、静かに引き籠つて修身斉家の道を説くだけぐらゐに止めてたら可からうと思はるゝ方もあらう。然し私は敢て僣して自ら孔夫子を以て任ずるわけでは素よりないが、孔夫子が若しや、自分が出たら其国の政治が良くなるかも知れぬと思うて、召されさへすれば何処にでも出て仕へたやうに、老人の私でも出て奔走すれば、若しや少しでも世間の御役に立つ事が出来やうか、と思ふ心があるものだから、電灯問題が起れば之に顔を出したり、米国の問題があると云へば夫れにも関係をしたり、対支交渉の事件が起つたとなれば、之にも亦顔を出したりするやうになるのである。要は、孔夫子が其志に忠なりし所を学んで、多少なりとも国利民福の為に貢献したいとの精神に外ならぬのである。
 兎角古来、英雄とか、豪傑とか称せらるゝ人々には、他に抽んでた非凡の長所特色がある代り、又同時に、大きな欠点の見出され得るものである。然るに、孔夫子には是れが非凡の長所であると特に指し得るものゝ無いと同時に、又一つの欠点さへ無いのである。総てが皆な円満に発達し、総てが非凡であると共に総てが平凡である、全く欠点が無いのである、之を称して偉大なる平凡とでも云ふべきものであらうかと思ふ。孔夫子も自ら卑事に通じて居ると申されたほどで、何一つ世の中の事で知らぬといふものは無かつたのである。「史記世家」にもある如く、六芸に通じて、馬を御したり、弓を射る事さへ心得られて、何事も行き亘つて居られた。論語の「郷党」篇にもある如く、孔夫子が大廟に入ゝらる[入らるゝ]や、事毎に問うて教を受け、後に始めて進退せられたものだから、傍にあつた者が若しや大廟の礼を孔夫子が心得て居られぬのかと尋ねて見ると爾うでは無い、斯く事毎に問うて後に進退するのが即ち大廟に於ける礼であると答へられたほどで、礼楽は素より申すまでもなく、後年には「春秋」を著されて歴史に対する造詣も頗る深くあらせられたのを示して居られる。
 要するに孔夫子は欠点なく何事にも精通した頗る円満な人物で、常識の非常に発達せられた方である。依て、私は孔夫子に学んで論語にある教訓を遵奉してさへゆけば、世間に出でゝ非難の無い常識の発達した人物になり得られるものと信ずる。又孔夫子の教訓は大なる常識に外ならぬものであるから、誰でも学んで実践躬行し得られるものである。
 斯の孔夫子の教は孔子より孟子に伝へられ、其後、韓退之なども之を伝へたやうであるが、一時余り世に行はれず、宋の時代になつてから其の復興を見るに及び、朱子の如き学者が現はれて四書の「朱子集註」の如きものを見るに至つたのである。然し、之より先に「古註」といふものもある。日本には、古註本も朱子集註本も共に渡来したが[、]徳川時代には、朱子集註が最も博く行はれたものである。
学而時習之。不亦説乎。有朋自遠方来。不亦楽乎。人不知而不慍不亦君子乎。【学而第一】
(学んで時に之を習ふ、亦悦ばしからずや。友あり遠方より来る、亦楽しからずや。人知らずして怒らず、亦君子ならずや。)
 この章句は論語の冒頭になつてるのであるが、筑前の学者亀井道載先生の著はされた「語由」等に拠つても明かなる如く、処世上頗る大切な教訓である。全体の章が「学而」「有朋」と「人不知而」との三段に分れ、一見何の脈絡も其間に無いかの如くに思はれるが、互に離すべからざる聯絡がある。「学んで時に之を習ふ亦悦ばしからずや」とは、「斯文」たる聖人の道を学び、修め習ふといふ事は、仮令単独でしても悦ばしい愉快な次第であるとの意味である。然るに、その上なほ、遠方より来れる友人と共に、自ら習ひ修めた道を語り明かし、之と共に切磋琢磨して道に進んで行けるやうになつて、仮令二三人でも同志の殖えるといふ事は、更に一層愉快な悦ばしい次第である、と云はねばならぬ。これが「朋あり遠方より来る、亦楽しからずや」の意味である。
 既に自ら習ひ修めた道を二三の友人になりとも伝へて共に語つて楽むを得るやうになつた上は、更に此の上之を衆に伝へ、それが天下に行はれるやうになつたならば、一層悦ばしく又愉快であるに相違ないが、さて、之を衆に伝へ天下に行はうとすれば世間が其教を容れて呉れず、人は容易に其道の何たるかを解して呉れぬ。然し、世間が解して呉れず人が知つて呉れぬからとて、苟も君子たるの修行をするものは之に腹を立てゝ怒るやうな事のあるべき筈のものでないといふのが「人知らずして慍らず、亦君子ならずや」の意味である。
 然し、凡人は兎角自分の折角の志が人に知られず世間に行はれぬと腹を立てゝ憤つたり、気を腐らして悲観したりするものである。そんな事をしてはならぬ、といふのが、この「学而」篇の冒頭にある章句の教訓である。私は今日まで及ばぬながらも論語の此の教訓を身に体にして、自分の尽すべき丈けの事を尽しさへすれば、仮令それが人に知られず、世間に容れられようが容れられまいが、それには頓着なく決して慍るとか腹を立てるとか悲観するとか云ふ事は無いやうにして来たつもりである。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.638-645
底本の記事タイトル:一八八 竜門雑誌 第三二五号 大正四年六月 : 実験論語処世談(一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第325号(竜門社, 1915.06)*記事タイトル:実験論語処世訓(一)
初出誌:『実業之世界』第12巻第11号(実業之世界社, 1915.06.01)