デジタル版「実験論語処世談」(1) / 渋沢栄一

5. 維新前の商工業者

いしんぜんのしょうこうぎょうしゃ

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 かくまで実業家の拠つて以て則とするに足るべき教訓が論語などに充ち満ちて居るに拘らず、維新前は農工商等の実業に従事するものに毫も文字の素養なく、越後屋だとか大丸だとかの大きな老舗にでもなると、文字の知識ある者を角い文字を知つてるからと称し、何んとなく之を危険視して店員に採用せず、文字の素養が無い者ばかりを使用してたものである。随つて、角い文字で書かれた論語、其他修身斉家に必要なる典籍の如きも士大夫の間にのみ多く読まれて、実業家の間には読まれなかつたものである。
 その結果は更に悲しむべき現象になり、素と実践躬行の為に説き遺された孔夫子折角の教訓と、実際の社会に必須の要素たる実業との間に殆ど何の関渉聯絡をも存せざるまでに至り、論語の如きも士大夫にばかり読まれて、実業家が日常その稼業に処する上の指南車となり得ぬものとなり、知と行とが別々になつてしまつたのである。
 維新後、外国との交通も開けて参つたに就ては、商工業者の品位を高めねばならぬことになつたのであるが、それには知行を一致さして商工業等の実業に従事する者にもその拠るべき道を知らしめ、斯の道によつて、実際の商工業を営むやうになさしめねばならぬものと私は感じたのであるが、この目的を達するには、維新前まで士大夫の間にのみ読まれ、その極、行を離れて徒に章句の末を研究する弊に陥つてしまつたから、私は孔夫子の経典を実際の実業に結びつけて読ましむるやうにし、之を実践躬行するのが何よりであると考へ、最も実際に適切な道を説かれてある論語を私も読み、又他の実業家にも読んでもらひ、知行合一によつて実業の発達を計り、国を富まし国を強くし、天下を平かにするに努むべきものだと信じたのである。私が論語を服膺し、その教訓を実地に行ふ事に心懸くるやうになつた一つの因縁は実に這個にある。実業を何時も政府の肝煎にばかり任せて置いては、決して発達せぬ、民間に品位の高い知行合一の実業家が現はれ、卒先之に当るやうにせねばならぬものであると感じた事が、私をして論語の鼓吹者たるに至らしめたものだ、とも亦云ひ得ると思ふ。

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維新, 商工業者
デジタル版「実験論語処世談」(1) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.638-645
底本の記事タイトル:一八八 竜門雑誌 第三二五号 大正四年六月 : 実験論語処世談(一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第325号(竜門社, 1915.06)*記事タイトル:実験論語処世訓(一)
初出誌:『実業之世界』第12巻第11号(実業之世界社, 1915.06.01)