デジタル版「実験論語処世談」(1) / 渋沢栄一

8. 孔子は如何なる人か

こうしはいかなるひとか

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 孔夫子は「史記世家」にもある如く、今を去る約二千四百六十五年前、魯の襄公二十二年に魯の昌平郷と名づけらるゝ里に生れられたものである。初めは、倉庫掛乃至は又畜産等の役人になられたが、成績何れも見るべきものがあらせられた。三十五歳の頃、生国の魯が乱になつたので、昭公が斉に奔られた後を追うて同じく斉に赴かれたところを、斉の景公が抜擢して大いに用ひようとしたが、反対者があつて用ひらるゝことが出来なかつたので、再び生国の魯に帰られたものである。然るに四十三歳に及ばれた時、魯は季氏の天下となつた。この時に、孔夫子は季氏に仕へようとせられたのであるが、偶々陽虎と称する者が反して又国が乱れたので、遂に仕へずに退かれたのである。ところが五十一歳に成られた時に、季氏に反いて起つた公山不狃が亦孔夫子を召すことになつた。この時も亦孔夫子は往かうとせられたのだが、遂に行かれなかつたとある。その後も孔夫子は諸国を遍歴し、諸公に仕へて見られたが、何れも我が志を行はしむるに足る処が無かつたので、又生国の魯に戻られたのが哀公の十一年、齢方に六十八歳の時にあらせらる。それから七十三歳で逝かれるまでは全く仕官の念を断たれて、門弟を教育し道を伝へることにのみ意を注がれたのであるが、六十八歳になられるまでは志が主として政治方面にあつて、周の時代を復興し、王道を天下に布きたいといふのに熱心であらせられたものゝ如く察し得らるゝのである。

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孔子, 如何,
デジタル版「実験論語処世談」(1) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.638-645
底本の記事タイトル:一八八 竜門雑誌 第三二五号 大正四年六月 : 実験論語処世談(一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第325号(竜門社, 1915.06)*記事タイトル:実験論語処世訓(一)
初出誌:『実業之世界』第12巻第11号(実業之世界社, 1915.06.01)