デジタル版「実験論語処世談」(1) / 渋沢栄一

6. 孔子教は宗教なりや

こうしきょうはしゅうきょうなりや

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 論語の如何なるものであるかを説く前に、一つ考へて置かねばならぬ事は、孔子の教即ち儒教なるものは宗教なりや否やの点である。目下のところ我が邦に於て之に対する意見が二派に別れて居る。文学博士井上哲次郎氏は孔子教は半ば宗教で、少くとも宗教らしい処のものであると主張せられるが、之に反対して法学博士阪谷芳郎は、否な全然宗教ではない、孔夫子は単に実践道徳を説かれたものに過ぎぬと論駁し、今なほ論戦酣で、何れとも決定せられたわけでない。
 論語「子罕」篇に、
 天之将喪斯文也。後死者不得与於斯文也。天之未喪斯文也。匡人其如予何。
(天の将に斯の文を滅ぼさんとするや遅れて死する者は斯の文に与ること得ず、天の未だ斯の文を亡さゞるや匡人夫れ予を如何せむ)
 とあるが、この章句にある「斯文」とは、孔夫子が之を其当時の世に伝へ、又後世に遺さんとせられた「文王の道」を指したもので、この一章の意は聖人の道を滅ぼさんとするのが若し天意ならば、予(孔夫子)或は匡の人々の手によつて殺さるゝかも知れぬ。然し予(孔夫子)が未だ其事業を卒らぬうちに殺されてしまへば、後世の者は聖人の道たる「斯文」を知り得られない事になるから、聖人の道を滅ぼしたく無いとの天意のある中は、「斯文」を伝ふるを以て天職とする予(孔夫子)は、決して匡の人々の手によつて殺さるべき筈のものでないといふにある。この処に、孔夫子が天に対する信仰のあつた事がほの見えて居る。

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デジタル版「実験論語処世談」(1) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.638-645
底本の記事タイトル:一八八 竜門雑誌 第三二五号 大正四年六月 : 実験論語処世談(一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第325号(竜門社, 1915.06)*記事タイトル:実験論語処世訓(一)
初出誌:『実業之世界』第12巻第11号(実業之世界社, 1915.06.01)