デジタル版「実験論語処世談」(1) / 渋沢栄一

4. 論語主義は明治六年より

ろんごしゅぎはめいじろくねんより

(1)-4

 当時はまだ耶蘇教は普及するまでに至らなかつたので、私は素より耶蘇教の如何なるものであるかを知るべき由も無かつたのであるが、仏教に関しても知るところが甚だ狭かつたから、私は実業界に身を委ぬるに就て則とすべき規矩準縄を耶蘇教や仏教より学ぶわけに参らなかつたのである。然し、儒教即ち孔夫子の教ならば無学ながら私も幼少の頃より親しんで来たところである。殊に論語には、日常生活に処する道を一々詳細に説かれてあるので、之に拠りへさすれば万事に間違ひなく、何事か判断に苦むやうな場合が起つても、論語といふ尊い尺度を標準にして決しさへすれば必ず過ちをする憂の無いものと信じ明治六年実業に従事するやうになつて以来は、斯る貴い尺度があるのに之を棄てて何に拠らうかと迷ふ必要は無いと思ひつき、眷々論語を服膺して之が実践躬行に努めることにしたのである。
 論語には実業家の取つて以て金科玉条となすべき教訓が実に沢山にある。仮令へば「里仁」篇の
 富与貴。是人之所欲也。不以其道。得之不処也。貧与賤。是人之所悪也。不以其道。得之不去也。(富と貴きは是れ人の欲する所なれども、其道を以てせざれば之を得るも処らず。貧と賤しきとは是れ人の悪む所なれども、其道を以てせざれば之を得るも去らず)
の如き即ち其一例で、実業家の如何にして世に立ち身を処すべきものたるかを、明確に説き教へられたものである。又同じく「里仁」篇の中に
 放於利而行。多怨。(利によりて行へば怨み多し)
 などの句がある。其他、一々枚挙に遑なきほどで、実業家の日常生活に於て遵守すべき教訓が実に論語には多いのである。

全文ページで読む

デジタル版「実験論語処世談」(1) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.638-645
底本の記事タイトル:一八八 竜門雑誌 第三二五号 大正四年六月 : 実験論語処世談(一) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第325号(竜門社, 1915.06)*記事タイトル:実験論語処世訓(一)
初出誌:『実業之世界』第12巻第11号(実業之世界社, 1915.06.01)