デジタル版「実験論語処世談」(36) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.256-264

子曰。富而可求也。雖執鞭之士。吾亦為之。如不可求。従吾所好。【述而第七】
(子曰く、富にして求むべくんば執鞭の士と雖も、吾れ亦之を為さん。如し求むべからずんば、吾が好む所に従はん。)
 茲に掲げた章句のうちにある「執鞭の士」とは、周礼に拠れば下士の役で、君の出入に当つて趨走し、道路の人々を避けしむるお先払を承る賤しい職務の人をいふのであるが、この章句は決して孔夫子が富を賤む意を述べられたものでは無い。求むべき正当の富貴ならば、之を得んが為に如何なる労苦を為すをも敢て厭はぬが、求むべからざる富を追ひ求め、之が為に道を枉げ自尊を傷くる如きは、到底忍ぶ能はざる処ゆゑ、其れよりは寧ろ吾が好む処の道に遵つて歩み、富貴の如き之を眼中に置かぬといふ気概を示されたのである。富の賤しきに非ず、之を求むる精神と手段とに往々賤むべきものあるを、大に慨き悲まれたのが、此の章句の趣旨である。
 維新の鴻業を大成するに与つて力のあつた元勲は、孰れもみな富を求めて立働いたのでは無い。西郷卿にしても、大久保卿にしても、木戸卿にしても、悉く国家の興隆を念として之が為に奔走せられたものだ。ただ、初め尊王攘夷を目標として起たれたのが、時勢に鑑みて尊王開国に其目標を変改せられたのみである。私の如き志士の末班を汚すに過ぎなかつた者ですら、国家の利益を思うて国事に奔走したものだ。維新の鴻業が彼の如く円満に遂行せられ、当時多少の動揺が国内にあつたにしても、昨今の露西亜に見る如き惨状を呈する事も無く、日本が能く今日あるを致したのは、固より国体の良い為でもあるが、維新の事業に当つた人々に私の心無く、改革によつて一身の富貴利達を計らんとせず、一に国家の前途を思ふ念が先に立つたからである。明治維新の先達になつた元勲に、若し一身を富まさんとする如き私心があつたならば、維新の鴻業も彼の如く容易に遂げ得られなかつたらう。兎角自らを富まさんとする念が先に立てば、人は道を踏み外すに至り易いものだ。西郷隆盛卿の詩にある如く、「子孫の為に美田を買はず」といふ心があつて人は始めて大過無きを得るものである。
 維新の元勲等に斯く自らを富まさんとする念無く、国家を思ふの念が先に立つたに就ては、私の稽ふる処では、孔子教の感化が与つて力があつたやうに思はれる。漢学の素養が維新の元勲をして一身の富貴栄達を棄て、身を以て国事に当るに至らしめたのである。前回談話したうちにも申述べ置ける如く、孔子教は修身斉家の道を説くに当つてもその帰着する処を「治国平天下」に置いたもの故、漢学の素養によつて孔子教に触れ、四書等を読んだ者が、何よりも国家を第一にするに至るのは誠に当然の事である。
 私は初めより富を求めんとして世に起つたので無いから、今日に於て富める者となる能はず貧乏して居るからとて、敢て其間に不思議は無いのである。富を求めぬ者が富を得ぬのは当然の事だ。然し又同時に、富を求めた人々が富を得たのにも不思議は無い。これは仁者が仁を求めて仁を得るのと毫も異らぬのである。然し如何に富を求めても其器に非ざれば富は決して得られるもので無い。安田、森村、大倉、浅野などの諸氏は私と根本の精神を異にし、初めから富を求めた方々である。而してその求めた富を得られた人々である。是等の諸氏は仁を求むる仁者が仁を得たのと同じく、その初一の目的を達せられたもので、孰れも皆偉い人々だ。然し又世の中には、初め富を求むる心算で無く国家の利益を思うて国事に奔走して居るうちに自然と富を得、富を得たので何時の間にか心情に変化を来し、初一の精神を変改して富を求むる為に働くやうになる人もある。幸にも維新の鴻業に関係した西郷、大久保、木戸の諸卿は勿論伊藤公なぞも斯んな卑劣の根性を起さなかつたので、日本は為に国家として非常な仕合せを得たのだ。
 さて又世の中には如何に巨万の富を得てもなほ其上に富を得ようとして之を求むるに汲々たる人がある。否富豪の多くは皆斯の種の傾向ある者だと謂つても差支の無いほどだ。如何に富を求めても之を得られぬ人々の眼から観れば、富豪の斯る心理状態は殆ど之を理解するに苦しむくらゐのものだが、俗にも「吐月峰と金満家は溜まるほど穢くなる」といふ俚諺のある程、富は如何に多く蓄積せられたからとて以後は不用といふものでは無い。猶ほ此上にも此上にもといふ気になる一寸不思議のやうに見えて決して不思議で無い。支那の語にも「河海は細流を捨てず、大山は土壌を譲らず」とある通りで、細流も寄り集まれば河となり海となり、土壌も積み重なれば大山となる如く、巨万の富も素は釐銭の端した金銭が寄り集つて始めて出来たものである。釐銭を疎かにしては巨万の富を成し得られぬのだ。数億の富を積んでる身分の富豪が、百円の金銭をも惜しく思ひ、猶ほ之を求むるに汲々たるを観て、不可解なりとするは富を得ぬ者の心情で、富を求めて得た富豪の心情になつて観れば、百円が幾つも重なつて今日の富となつたのであるから、如何に百円は少額でも之を棄てて可いといふ気になれず、之を棄つれば九仭の功を一簣に欠くやうな気がしてならぬので如何に少額の金銭にも猶ほ執着する事になるのである。これは恰度学者が知識を求めて之を得るに汲々し、如何に些細の知識でも苟も知識と名の付くものならば之を棄てて顧みぬ如きことを為さず、又仁を求むる仁者が弥が上にも仁を求むるに汲々たる心情と毫も異る処無く、富を求むる者の心に当然起るべき自然の心理傾向である。敢て怪むにも足らねば又不思議とするにも及ばぬ。
 漢学の普及によつて日本国民の間に国家観念の熾烈になつたことは事実で、又、維新の元勲共に自己の富貴利達を冀ふ念よりも、国家を思ふの念が先に立つたのも、一に孔子教の感化に因ることであるが、一方には又漢学の普及と孔子教の感化とが、維新前の国民をして富を軽んじ、商工農を賤しむるに至らしめたる如き観が無いでも無い。否大抵の人は斯く観て居るのである。然し維新前の封建時代に於て、商工農を賤しむ傾向を生ずるに至つたのを、一に孔子教に帰するは、孔子教を誣ふるの甚しきものだ。斯る弊の生じたのは封建制度そのものの罪である。世が戦国とならず、封建制度が樹立せられぬ以前にあつては、商工農も決して賤しめられず、実業家は朝廷からも尊重せられて居つたものである。この精神は仁徳天皇を初め奉り、歴代天皇の御製にも顕れて居れば、又朝廷に於かせられて商工農に従事する者を重んぜられ、之に特別の姓氏を賜うた事実なぞもあつて、頗る明かに発揚せられて居る。
 然るに世が戦国の時代となり、群雄諸方に割拠するに至るや、兵力の在る処に自ら勢力も寄り集り、英雄即ち君主、君主即ち小国家で、英雄以外君主以外に民衆が無くなつてしまひ、民衆は一に君主たる英雄の利益幸福を増進する道具に供せらるるばかりになつてしまつたのだ。処が諸方に割拠した英雄共は、生存競争の必要上、日本といふ大きな国家のことなどを毫も念頭に置かず、偏ら自分の勢力区域を拡張して他の勢力区域を蚕食せんとする事にのみ意を注いだので、之が為に凡らゆる手段を講じ、強者の権利を揮り廻はして武力の乏しい民衆を虐げ、之をして一に君主たる英雄の利益を増進する事にのみ働かせるやうにしたのである。甲斐の武田信玄にしても、越後の上杉謙信にしても、孰れも英雄たるには相違無いが、眼中には民衆の利益幸福を増進してやらうなぞといふ気は毫も無く、ただ自分の勢力を張らんとする事にばかり腐心したものだ。随つて、信玄でも謙信でも、当時は日本の信玄、日本の謙信で無くて、甲斐の信玄、越後の謙信たるに過ぎなかつたのである。諸方に割拠した群雄が斯く自分の勢力を張らんとして民衆を其の道具に使つた結果は、自ら民衆の大部分を占むる商工農を賤み、之を蔑視するやうになつたのであるが、それが一転して制度となり、封建時代になつてからは商工農を圧服して之を虐ぐる制度の樹立を実現するに至り、その制度を固く維持する必要の上から、更に進んで商工農を賤むやうな教育を施すに至つたのである。その教育が遂に固定して風俗習慣となり、商工農者は一般に賤めら[れ]、又自分達も自分達を賤むやうになつたのが、維新前後までの実際である。維新前後まで実業家が賤められてゐたのが、孔子教乃至は又漢学の罪で無くつて封建制度そのものの罪であるといふのは茲に在る。
子之所慎。斎。戦。疾。【述而第七】
(子の慎む所は斎と戦と疾となり。)
 茲に掲げた章句は、弟子が孔夫子の平生に就て評したもので、若し論語を編した者が程子の説の如く、有子、曾子の二人であるとすればこれは斯の二人の意見である。若し又物徂徠の説の如く、琴張、原思の二人の手に成つたものだとすれば這の二人の意見であるが、孰れにしても亦誰が観ても孔夫子は其平生に於て、斎即ちモノイミ、戦即ちイクサ、疾即ちヤマヒの三つに対しては大事を取られ、モノイミを仕て意を誠にするに力め、容易に戦を主張せず、大に衛生を重んじて居られたものと思はれる。兎角、自信力の強い英雄豪傑になれば、運命を軽んじ、敵を蔑り、身を軽んずる傾向を生じ、如何に傍若無人に挙動つても自分の力によつて天を制し、敵を制し、疾をも制することのできるやうに思ふ傾きを生ずるものだが、毫も斯る軽率なる考へを起されず、運命を重んじて慎重にモノイミを致されたり、漫りに我が勇に誇つて敵を軽んずる如きことを為さず、細心の注意を以て衛生の道を重んぜられた処に、孔夫子の孔夫子たる偉い点がある。
 然し私には、什麽したものかモノイミをするといふやうな慣習が無い。又世間の或る人々のやうに、毎朝先祖を祀つてある仏壇の前に跪いて礼拝することも致さなければ、或る特種の神を信心して之を拝むといふが如き事をも私は致さぬのである。畢竟私は百姓の家に生れて幼時よりそんな礼儀作法に馴らされなかつた結果であらうと思ふが、又モノイミをしたり或る特種の神仏を難有がつて之を拝んだりするのは迷信であるといふ事を、幼年の頃から父より説き聞かせられて居つた為であらうと思ふ。さればとて私には敬神尊仏の念が全く皆無かと謂へばさうでも無い。父母の菩提を弔ふ念もあれば、又鎮守を初めとして神社仏閣を尊崇する念もある。要するに私の神や仏に関する観念は頗る漠然たる抽象的のもので、或る人々の懐く観念の如く、人格人性を具へた具体的の神仏と成つて居らず、ただ「天」といふ如き無名のものがあつて、玄妙不可思議なる因果の法則を支配し、之に逆ふ者は亡び、之に順ふ者は栄えると思つてるぐらゐに過ぎぬのである。然し、これが私の信念であるから、前条に申述べたうちにも屡〻御話した如く、「天、徳を予に生ず。桓魋其れ予を如何せん」との確乎動かすべからざる自信を以て世に処し得らるるのだ。
 そこに至ると、之までも屡〻談話したことのある白河楽翁公と称せられた松平定信なぞは、私の如き百姓の生れで無く、徳川第十代の将軍家治の甥に当り、立派な武家育ちの御方であらせられる丈けあつて自然日常教育の上から、幼少の頃より人性人格を具ふる具体的の神仏に就ての観念を吹き込まれて居られたものと見え、あれほどの学者でありながら、什麽して那的信仰があつたかと怪まれるほど、迷信的に傾いた観念を持つて居られたもので、幕府の老中に挙げられた際なぞには、前条にも一寸申して置いたことのあるやうに、本所吉祥院の歓喜天へ妻子眷族の生命までも懸けた誓文を奉納せられたといふ事実がある。その外にも猶ほ一つ、楽翁公が斎即ちモノイミを重んじ、神仏に対し如何に敬虔の念を持つて居られたかを知るに足る事実がある。本所吉祥院の歓喜天へ密封を以て納められた心願書は左の通りで、現に楽翁公の後胤たる松平子爵家に所蔵せられて居る。
 徳川第十代の将軍家治には二人の弟があらせられたが、小弟は宗尹と称して一橋家を起し、長弟は宗武と称して田安家を起すことになつたのである。楽翁公は斯の田安宗武の第七子にあらせられた故、前条に申した如く、家治将軍の甥に当るのだ。楽翁公が一旦幕府の老中に挙げられてから之を辞さねばならぬやうになられたのは、種々の事情もあるらしいが、表面は仙洞御所を太上天皇と申上ぐる尊号事件に就て意見の合はなかつた結果である。頃は光格天皇の御世に当る寛政五年の二月、京都の禁裡より大納言中山愛親、大納言正親町公明の両公卿が勅使として江戸表へ下向あらせられて、天皇の御生父典仁親王を奉じて太上天皇と称し奉る儀に就き、幕府へ謀る処があつた。然るに楽翁公は、よし典仁親王が今上天皇の御生父に在らせられて仙洞御所に御座ますからとて、已に臣たる上は之に太上天皇の尊号を上つるは名分を殽乱するの甚しきものであるとの意見で極力尊号を上つる儀に反対し、斯の趣を殿中に於て両大納言に伝へたのだ。然し両大納言とも容易に之に屈せず、漸く水戸の治保公が勅使と老中との間に居中調停の労を取つたので、典仁親王に稟米二千石を幕府より献上することに話を纏め、中山、正親町の両大納言は一と先づ京都へ帰つたのであるが、楽翁公は其際責任を負うて老中の職を辞する事になつたのだ。
 楽翁公が斯く尊号事件から責を引いて老中の職を辞さるるに当り、公私の機密書類を一と括めにして蔵め置かれたものが今日でも楽翁公の後胤たる松平子爵家に家宝として伝はつて居る。そのうちで幕府の公用に関する書類以外の私事に関する秘書は「宇下人言」と題する書冊となつて遺つてるが、如何なる趣意から斯の秘書類を「宇下人言」と題するに至つたものか、当初は私にも頓と理解らなかつた。然し、能く稽へてみると「宇下」は楽翁公の御名前である「定信」のうちの「定」の一字を二字に分解したもので、「人言」は「信」の字を同じく二字に分解したものだ。つまり「宇下人言」は、之を合すれば「定信」の二字になるから、近代語で謂へば「自叙伝」といふ如き意味になるだらう。その内容は私も拝見して知つてるが、御自身の生ひ立ちから奥州白河の城主松平定邦の養嗣子となられた次第、それから御自身の経歴なぞ詳細に書いてあつて、立派に自叙伝の体裁を具へたものだ。ところでその中には屡〻「これ丈けの事をしても先祖の霊は決して御咎めにならぬだらう」といふやうな意味の句が書かれてある。之によつて見ても、楽翁公が如何に斎即ちモノイミを重んぜらるる念を懐つて居られた御方であるかを窺ひ知り得らるるだらうと思ふ。
 孔夫子の慎まれた処は、斎と戦と疾とであつたと云ふ事だが、私は斎即ちモノイミに就ては至つて無頓着の方なるにも拘らず、戦ひを嫌ふ事だけは孔夫子と同一であるとでも申さうか、他人とは努めて争はぬやうに心懸け、大に慎んで居る。又国家としても、戦争なぞは成るべく致したく無いものだと思つてる。「雨降つて地固る」なぞいふ古い諺もあつて、人と人との間には争ひが無ければ局面の展開を期し難く、世の中に戦争が無ければ改革の行はれるもので無いかの如くに説く論者もあるが、争ひとか戦ひとかいふ現象は、或る人若くは国が、理が非でも自分の無理を貫徹しようとするより起る事で、人若くは国に無理を貫さうとする気さへ無くば、争ひや戦ひは起さずとも済むものだ。今度の欧洲戦争なんかも、無理を貫さうとする者があつたから起つたことで、本来ならば起るべき筈のもので無い。局面の展開とか世上の改革とかいふ事は、敢て争ひ戦はずとも、自然の推移によつて遂げられ得るものだ。ただ、一人若くは一国が無理を貫さうとするので野獣の相撃つ如き現象を生じ、争つたり戦つたりする事になるのである。
 疾に就ても、私は余り慎むといふ方では無い。或る人々の如く特種の摂生法を取るやうな事は致さぬ。生死を念頭に置かず、何でも天理に逆はぬやうにと心懸け、大過無き生活を致して居りさへすれば、天は私を活して置く必要のある間だけ私を活して置き、寿命を与へてくれるものだと信じて居る。然し、私も今日までのうちに大患に罹つて生命が危険と思はれた事が二度ある。一度は明治二十七年の癌で、一度は明治三十七年の肺炎だ。私は三十七年の時の肺炎の方を危険と思ひ、半ば遺言のやうなものまでしたほどであつたが、二十七年の癌の時には、私よりも世間が却つて心配したのである。
 誰が見ても知れるやうに私の右の頰の唇の辺は妙に凹んでるが、これは明治二十七年に癌を切り取つた痕跡だ。この年には日清戦争が始まつて大本営を広島行在所に置かれ、明治天皇は同地に御駐輦あらせられた。私は別に左したる異状が身体にあるとも思はず、少し口の辺りが変で、悪寒がするぐらゐに思つたのみで推して天機奉伺の為広島に赴いたのだが、帰途汽車中で発熱甚だしく、余りに苦しくなり到底堪へ難く覚えたので、帰京するや否や直に高木兼寛氏の診察を請ふ事にしたのである。然るに高木氏は診察の結果、癌であるとの診断を与え、橋本綱常氏及び帝国大学のスクリツパ教授も亦立会つて診察したが、やはり癌であるとの診断で、高木兼寛、橋本綱常、スクリツパの三氏が立会つて癌腫を切開し、之を切り取つてしまつたのである。幸に予後良好で健康は旧に復したのだが、癌は一度腫物を切り取つてしまつても亦再発するのが殆ど例になつてるさうで、私の如く全く再発せぬのは、稀有の例であると云ふ。
 当時、私は左までの危険状態にあるものだとは思つてなかつたのだが、世間では、既う渋沢も駄目だ、癌に斃れてしまふだらうと噂し合つてたさうである。橋本綱常氏すら或人に向つて「渋沢も折角働いてるが、今度といふ今度は実に気の毒なものだ、たうとう癌に生命を取られてしまふことになつた」と語られたほどである。然るに如何に切り取つても必ず再発すべきものと予期せられて居つた癌は、何うしたものか瘡痕の癒ゆると共にそのまま癒つてしまひ、橋本氏の如きはその頃私を見る毎に、恰も癌の再発を催促するかの如き調子で「まだ出て来ぬのか」と怪んで問ふのを例としたほどである。私は余り屡〻問はれる処より、橋本氏に向ひ「貴公は癌の再発を望んでるのか」と問ひ返したことのあるほどだが、天祐とでもいふべきであらうか、不思議に再発せず、すつかり快癒してしまつたものだから、橋本氏の如きは癌で無くつて他の腫物であつたらうなぞと後日に至つて疑ひを起したほどである。之に対し高木氏は、自分が主治医となり三名まで立会つて診察し、それで癌と診断したものに誤診のありやう筈無く、癌であつたが天祐により快癒したのであると主張せられたくらゐで、今日に至るまで再発せぬのは、全く天が私を棄て給はなかつたからだらうと思ふのである。
 次の大患は明治三十七年に罹つた肺炎であるが、この時には二十七年に癌を患つた時よりも私自身では危篤であると思つた。私は其の前年の三十六年十一月より中耳炎を煩ひ、明けて三十七年の二月まで之に悩まされ、二月になつて漸く快方に向つたもんだから、病後の休養旁〻避寒の為同月国府津へ赴く事にしたのである。国府津には二月より四月まで滞在して居つたのだが、病気に罹るのも癖になるものか四月になつて猶ほ国府津に滞在中大腸加答児に罹り、之れも漸く癒えたので東京に帰ることにすると、帰京してから間も無い五月に至り肺炎を患ふやうになつた。この肺炎が軽微のもので無くつて熱が四十度にも昇るといふほどであつたから、私は到底再び起つ能はざるものと思ひ、遂に半遺言の如きものまでしたのだ。然し、これも亦天祐によつて全快し、その後格別の大患にも罹らず、至つて健康で七十九歳の老齢を迎ふるまでになつたのは、私として実に此上無き仕合せである。
 私は前条にも一寸申して置いた如く、生死を全く念頭に置かず、間違つた行為をせぬやうにさへ心懸けて居れば、天の与へてくれる丈けの寿命は生きられるものと思つてるが、什麽せ死ぬものなら頓死でもしたら他人へ余り心配も懸けず、自分も苦しく無くつて宜しからうなぞと考へる事もある。
冉有曰。夫子為衛君乎。子貢曰。諾。吾将問之。入曰。伯夷叔斉何人也。曰。古之賢人也。曰。怨乎。曰。求仁而得仁。又何怨。出曰夫子不為也。【述而第七】
(冉有曰く、夫子、衛君を為《たす》けんか。子貢曰く、諾。吾将に之を問はんとす。入りて曰く、伯夷叔斉は何人ぞや。曰く、古の賢人なり。曰く、怨みたるか。曰く、仁を求めて仁を得たり、又何をか怨みんと。出でて曰く、夫子は為けざるなり。)
 孔夫子の御弟子で冉有と称した子路は衛の国に仕へて居つたのだが衛の霊公は其子の蒯聵と容れず之を追放してしまはれたので、霊公の薨ぜらるるや、蒯聵の子にして霊公の孫に当る出公輒が王位に即いたのだ。処が当時晋の国に亡命中であつた出公輒の父に当る霊公の世子蒯聵は、斯くと知るや晋の兵力を借つて衛の国へ攻め来り、茲に父子の戦ひとなつたのである。そこで当惑して去就に迷つたのが当時衛に仕へて居つた子路で、出公輒を助けて其の父の蒯聵を敵とし戦つたものか、それとも蒯聵の軍には敵対せず、その衛へ攻め入つて来るままに放任して置いた方が善いものか……頓と判断が付か無くなつたものだから、之に就て孔夫子の御意見を伺はうと思つて合弟子の子貢に依頼し、この際孔夫子は衛の当主出公輒に味方して下さるか何うかと、遠廻しに孔夫子の御意見を訊してもらふ事にしたのである。
 子貢は子路よりの依頼を引受け承諾をしたものの、同氏も亦単刀直入に孔夫子の意見を求むるに躊躇し、伯夷叔斉をダシに使ひ、伯夷は先考の遺命なりとて王位を弟の叔斉に譲つて自ら之に即かず、叔斉は又人倫を重んじ兄の伯夷に位を譲つて自ら即かず、兄弟互に王位を譲り合つて逃れ、止む無く中子が王位を継ぐことになつたが、この両人は如何なる人物でありませうかと孔夫子に問ひかけて見たのである。然るに孔夫子は兄弟争はなかつた伯夷叔斉の両人を賞め、「古の賢人なり」と賞められたので、子貢は重ねて「それにしても、腹の中では両人とも不平であつたらう」と問ひかけると、「イヤ決して爾んな事は無い。両人共仁を行はんとして仁を行ひ得たのであるから、定めし満足に思つた事だらう」と孔夫子は申されたので、子貢は「これでは迚も孔夫子は父子喧嘩の仲間入をして、衛の現主たる出公輒を助けなさる筈無く、輒は須らく其位を父の蒯聵に譲るべきものだと思つてなさるに相違無い」と考へ、子貢は孔夫子の許を辞して、子路に遇ひ、「迚ても夫子は衛の味方に成つては下さらぬ」と告げたといふのが、茲に掲げた章句の意味である。つまり、論語の編者は孔夫子の態度を叙して、骨肉相争ふのは人倫上甚だ好ましからぬものである事を戒めようとしたものである。
 この子路と子貢との問答、子貢と孔夫子との問答は、随分共に遠廻りをした談話法で、子路は自分の去就を如何に決すべきかに就き孔夫子の御意見を知りたいところから子貢に話を持ち懸けたのだが、その話を運んで行つた径路が如何にも面白い。又、子貢が其意を承けて孔夫子に尋ねた問ひも、それから之に応へられた孔夫子の御言葉も、実に言外に含まれた意の多いもので、一読して頗る趣味深く感ぜられ、尋常の談話でも斯うなれば禅の問答以上である。
 古くから「円い玉子も切り様で四角、ものも言ひ様で角が立つ」と云ふ端唄があるが、如何に角の立つやうな事でも、之をムキダシにして単刀直入に話し込まず、遠廻しに間接に話しかけて行けば先方を怒らせたり腹を立てさせたりなぞせず、うまく平和のうちに談話を進め円満なる解決を為し遂げ得らるるものだ。子路が直接法によつて子貢に話しかけず、子貢も亦直接法によつて孔夫子に問ひを懸けず、孔夫子が又直接法によつて答へられず、孰れも謎の如き問ひを懸けて謎の如き答を得、之を如何やうにでも解釈し得らるるやうに其間に余裕を存して置いた処は、単に孔夫子の偉大な人格を示すのみならず、子貢といふ御弟子が却〻才智に長けた人である事を示すものだ。
 さて子路は子貢によつて取次がれた孔夫子の言葉から、孔夫子に衛の出公輒に味方する意の無い事を明かにするを得たので、父蒯聵との戦ひに於て、出公輒を助けぬことにしたものだから、出公は遂に衛から追はれて蒯聵が衛の王になつたのである。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.256-264
底本の記事タイトル:二六〇 竜門雑誌 第三六一号 大正七年六月 : 実験論語処世談(卅六回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第361号(竜門社, 1918.06)
初出誌:『実業之世界』第15巻第6,7号(実業之世界社, 1918.03.15,04.01)