デジタル版「実験論語処世談」(36) / 渋沢栄一

7. 中耳炎、腸加多児、肺炎

ちゅうじえん、ちょうかたる、はいえん

(36)-7

 当時、私は左までの危険状態にあるものだとは思つてなかつたのだが、世間では、既う渋沢も駄目だ、癌に斃れてしまふだらうと噂し合つてたさうである。橋本綱常氏すら或人に向つて「渋沢も折角働いてるが、今度といふ今度は実に気の毒なものだ、たうとう癌に生命を取られてしまふことになつた」と語られたほどである。然るに如何に切り取つても必ず再発すべきものと予期せられて居つた癌は、何うしたものか瘡痕の癒ゆると共にそのまま癒つてしまひ、橋本氏の如きはその頃私を見る毎に、恰も癌の再発を催促するかの如き調子で「まだ出て来ぬのか」と怪んで問ふのを例としたほどである。私は余り屡〻問はれる処より、橋本氏に向ひ「貴公は癌の再発を望んでるのか」と問ひ返したことのあるほどだが、天祐とでもいふべきであらうか、不思議に再発せず、すつかり快癒してしまつたものだから、橋本氏の如きは癌で無くつて他の腫物であつたらうなぞと後日に至つて疑ひを起したほどである。之に対し高木氏は、自分が主治医となり三名まで立会つて診察し、それで癌と診断したものに誤診のありやう筈無く、癌であつたが天祐により快癒したのであると主張せられたくらゐで、今日に至るまで再発せぬのは、全く天が私を棄て給はなかつたからだらうと思ふのである。
 次の大患は明治三十七年に罹つた肺炎であるが、この時には二十七年に癌を患つた時よりも私自身では危篤であると思つた。私は其の前年の三十六年十一月より中耳炎を煩ひ、明けて三十七年の二月まで之に悩まされ、二月になつて漸く快方に向つたもんだから、病後の休養旁〻避寒の為同月国府津へ赴く事にしたのである。国府津には二月より四月まで滞在して居つたのだが、病気に罹るのも癖になるものか四月になつて猶ほ国府津に滞在中大腸加答児に罹り、之れも漸く癒えたので東京に帰ることにすると、帰京してから間も無い五月に至り肺炎を患ふやうになつた。この肺炎が軽微のもので無くつて熱が四十度にも昇るといふほどであつたから、私は到底再び起つ能はざるものと思ひ、遂に半遺言の如きものまでしたのだ。然し、これも亦天祐によつて全快し、その後格別の大患にも罹らず、至つて健康で七十九歳の老齢を迎ふるまでになつたのは、私として実に此上無き仕合せである。
 私は前条にも一寸申して置いた如く、生死を全く念頭に置かず、間違つた行為をせぬやうにさへ心懸けて居れば、天の与へてくれる丈けの寿命は生きられるものと思つてるが、什麽せ死ぬものなら頓死でもしたら他人へ余り心配も懸けず、自分も苦しく無くつて宜しからうなぞと考へる事もある。

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中耳炎, 腸加多児, 肺炎
デジタル版「実験論語処世談」(36) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.256-264
底本の記事タイトル:二六〇 竜門雑誌 第三六一号 大正七年六月 : 実験論語処世談(卅六回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第361号(竜門社, 1918.06)
初出誌:『実業之世界』第15巻第6,7号(実業之世界社, 1918.03.15,04.01)