デジタル版「実験論語処世談」(36) / 渋沢栄一

2. 富者は何故富を求むる乎

ふしゃはなにゆえとみをもとむるか

(36)-2

 私は初めより富を求めんとして世に起つたので無いから、今日に於て富める者となる能はず貧乏して居るからとて、敢て其間に不思議は無いのである。富を求めぬ者が富を得ぬのは当然の事だ。然し又同時に、富を求めた人々が富を得たのにも不思議は無い。これは仁者が仁を求めて仁を得るのと毫も異らぬのである。然し如何に富を求めても其器に非ざれば富は決して得られるもので無い。安田、森村、大倉、浅野などの諸氏は私と根本の精神を異にし、初めから富を求めた方々である。而してその求めた富を得られた人々である。是等の諸氏は仁を求むる仁者が仁を得たのと同じく、その初一の目的を達せられたもので、孰れも皆偉い人々だ。然し又世の中には、初め富を求むる心算で無く国家の利益を思うて国事に奔走して居るうちに自然と富を得、富を得たので何時の間にか心情に変化を来し、初一の精神を変改して富を求むる為に働くやうになる人もある。幸にも維新の鴻業に関係した西郷、大久保、木戸の諸卿は勿論伊藤公なぞも斯んな卑劣の根性を起さなかつたので、日本は為に国家として非常な仕合せを得たのだ。
 さて又世の中には如何に巨万の富を得てもなほ其上に富を得ようとして之を求むるに汲々たる人がある。否富豪の多くは皆斯の種の傾向ある者だと謂つても差支の無いほどだ。如何に富を求めても之を得られぬ人々の眼から観れば、富豪の斯る心理状態は殆ど之を理解するに苦しむくらゐのものだが、俗にも「吐月峰と金満家は溜まるほど穢くなる」といふ俚諺のある程、富は如何に多く蓄積せられたからとて以後は不用といふものでは無い。猶ほ此上にも此上にもといふ気になる一寸不思議のやうに見えて決して不思議で無い。支那の語にも「河海は細流を捨てず、大山は土壌を譲らず」とある通りで、細流も寄り集まれば河となり海となり、土壌も積み重なれば大山となる如く、巨万の富も素は釐銭の端した金銭が寄り集つて始めて出来たものである。釐銭を疎かにしては巨万の富を成し得られぬのだ。数億の富を積んでる身分の富豪が、百円の金銭をも惜しく思ひ、猶ほ之を求むるに汲々たるを観て、不可解なりとするは富を得ぬ者の心情で、富を求めて得た富豪の心情になつて観れば、百円が幾つも重なつて今日の富となつたのであるから、如何に百円は少額でも之を棄てて可いといふ気になれず、之を棄つれば九仭の功を一簣に欠くやうな気がしてならぬので如何に少額の金銭にも猶ほ執着する事になるのである。これは恰度学者が知識を求めて之を得るに汲々し、如何に些細の知識でも苟も知識と名の付くものならば之を棄てて顧みぬ如きことを為さず、又仁を求むる仁者が弥が上にも仁を求むるに汲々たる心情と毫も異る処無く、富を求むる者の心に当然起るべき自然の心理傾向である。敢て怪むにも足らねば又不思議とするにも及ばぬ。

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富者, 何故,
デジタル版「実験論語処世談」(36) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.256-264
底本の記事タイトル:二六〇 竜門雑誌 第三六一号 大正七年六月 : 実験論語処世談(卅六回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第361号(竜門社, 1918.06)
初出誌:『実業之世界』第15巻第6,7号(実業之世界社, 1918.03.15,04.01)