デジタル版「実験論語処世談」(36) / 渋沢栄一

8. 骨肉相争ふを戒む

こつにくあいあらそうをいましむ

(36)-8

冉有曰。夫子為衛君乎。子貢曰。諾。吾将問之。入曰。伯夷叔斉何人也。曰。古之賢人也。曰。怨乎。曰。求仁而得仁。又何怨。出曰夫子不為也。【述而第七】
(冉有曰く、夫子、衛君を為《たす》けんか。子貢曰く、諾。吾将に之を問はんとす。入りて曰く、伯夷叔斉は何人ぞや。曰く、古の賢人なり。曰く、怨みたるか。曰く、仁を求めて仁を得たり、又何をか怨みんと。出でて曰く、夫子は為けざるなり。)
 孔夫子の御弟子で冉有と称した子路は衛の国に仕へて居つたのだが衛の霊公は其子の蒯聵と容れず之を追放してしまはれたので、霊公の薨ぜらるるや、蒯聵の子にして霊公の孫に当る出公輒が王位に即いたのだ。処が当時晋の国に亡命中であつた出公輒の父に当る霊公の世子蒯聵は、斯くと知るや晋の兵力を借つて衛の国へ攻め来り、茲に父子の戦ひとなつたのである。そこで当惑して去就に迷つたのが当時衛に仕へて居つた子路で、出公輒を助けて其の父の蒯聵を敵とし戦つたものか、それとも蒯聵の軍には敵対せず、その衛へ攻め入つて来るままに放任して置いた方が善いものか……頓と判断が付か無くなつたものだから、之に就て孔夫子の御意見を伺はうと思つて合弟子の子貢に依頼し、この際孔夫子は衛の当主出公輒に味方して下さるか何うかと、遠廻しに孔夫子の御意見を訊してもらふ事にしたのである。
 子貢は子路よりの依頼を引受け承諾をしたものの、同氏も亦単刀直入に孔夫子の意見を求むるに躊躇し、伯夷叔斉をダシに使ひ、伯夷は先考の遺命なりとて王位を弟の叔斉に譲つて自ら之に即かず、叔斉は又人倫を重んじ兄の伯夷に位を譲つて自ら即かず、兄弟互に王位を譲り合つて逃れ、止む無く中子が王位を継ぐことになつたが、この両人は如何なる人物でありませうかと孔夫子に問ひかけて見たのである。然るに孔夫子は兄弟争はなかつた伯夷叔斉の両人を賞め、「古の賢人なり」と賞められたので、子貢は重ねて「それにしても、腹の中では両人とも不平であつたらう」と問ひかけると、「イヤ決して爾んな事は無い。両人共仁を行はんとして仁を行ひ得たのであるから、定めし満足に思つた事だらう」と孔夫子は申されたので、子貢は「これでは迚も孔夫子は父子喧嘩の仲間入をして、衛の現主たる出公輒を助けなさる筈無く、輒は須らく其位を父の蒯聵に譲るべきものだと思つてなさるに相違無い」と考へ、子貢は孔夫子の許を辞して、子路に遇ひ、「迚ても夫子は衛の味方に成つては下さらぬ」と告げたといふのが、茲に掲げた章句の意味である。つまり、論語の編者は孔夫子の態度を叙して、骨肉相争ふのは人倫上甚だ好ましからぬものである事を戒めようとしたものである。

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デジタル版「実験論語処世談」(36) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.256-264
底本の記事タイトル:二六〇 竜門雑誌 第三六一号 大正七年六月 : 実験論語処世談(卅六回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第361号(竜門社, 1918.06)
初出誌:『実業之世界』第15巻第6,7号(実業之世界社, 1918.03.15,04.01)