デジタル版「実験論語処世談」(36) / 渋沢栄一

5. 楽翁公の「宇下人言」

らくおうこうのうげのひとごと

(36)-5

 徳川第十代の将軍家治には二人の弟があらせられたが、小弟は宗尹と称して一橋家を起し、長弟は宗武と称して田安家を起すことになつたのである。楽翁公は斯の田安宗武の第七子にあらせられた故、前条に申した如く、家治将軍の甥に当るのだ。楽翁公が一旦幕府の老中に挙げられてから之を辞さねばならぬやうになられたのは、種々の事情もあるらしいが、表面は仙洞御所を太上天皇と申上ぐる尊号事件に就て意見の合はなかつた結果である。頃は光格天皇の御世に当る寛政五年の二月、京都の禁裡より大納言中山愛親、大納言正親町公明の両公卿が勅使として江戸表へ下向あらせられて、天皇の御生父典仁親王を奉じて太上天皇と称し奉る儀に就き、幕府へ謀る処があつた。然るに楽翁公は、よし典仁親王が今上天皇の御生父に在らせられて仙洞御所に御座ますからとて、已に臣たる上は之に太上天皇の尊号を上つるは名分を殽乱するの甚しきものであるとの意見で極力尊号を上つる儀に反対し、斯の趣を殿中に於て両大納言に伝へたのだ。然し両大納言とも容易に之に屈せず、漸く水戸の治保公が勅使と老中との間に居中調停の労を取つたので、典仁親王に稟米二千石を幕府より献上することに話を纏め、中山、正親町の両大納言は一と先づ京都へ帰つたのであるが、楽翁公は其際責任を負うて老中の職を辞する事になつたのだ。
 楽翁公が斯く尊号事件から責を引いて老中の職を辞さるるに当り、公私の機密書類を一と括めにして蔵め置かれたものが今日でも楽翁公の後胤たる松平子爵家に家宝として伝はつて居る。そのうちで幕府の公用に関する書類以外の私事に関する秘書は「宇下人言」と題する書冊となつて遺つてるが、如何なる趣意から斯の秘書類を「宇下人言」と題するに至つたものか、当初は私にも頓と理解らなかつた。然し、能く稽へてみると「宇下」は楽翁公の御名前である「定信」のうちの「定」の一字を二字に分解したもので、「人言」は「信」の字を同じく二字に分解したものだ。つまり「宇下人言」は、之を合すれば「定信」の二字になるから、近代語で謂へば「自叙伝」といふ如き意味になるだらう。その内容は私も拝見して知つてるが、御自身の生ひ立ちから奥州白河の城主松平定邦の養嗣子となられた次第、それから御自身の経歴なぞ詳細に書いてあつて、立派に自叙伝の体裁を具へたものだ。ところでその中には屡〻「これ丈けの事をしても先祖の霊は決して御咎めにならぬだらう」といふやうな意味の句が書かれてある。之によつて見ても、楽翁公が如何に斎即ちモノイミを重んぜらるる念を懐つて居られた御方であるかを窺ひ知り得らるるだらうと思ふ。

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キーワード
松平定信, 宇下人言
デジタル版「実験論語処世談」(36) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.256-264
底本の記事タイトル:二六〇 竜門雑誌 第三六一号 大正七年六月 : 実験論語処世談(卅六回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第361号(竜門社, 1918.06)
初出誌:『実業之世界』第15巻第6,7号(実業之世界社, 1918.03.15,04.01)