6. 癌と肺炎とで瀕死
がんとはいえんとでひんし
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疾に就ても、私は余り慎むといふ方では無い。或る人々の如く特種の摂生法を取るやうな事は致さぬ。生死を念頭に置かず、何でも天理に逆はぬやうにと心懸け、大過無き生活を致して居りさへすれば、天は私を活して置く必要のある間だけ私を活して置き、寿命を与へてくれるものだと信じて居る。然し、私も今日までのうちに大患に罹つて生命が危険と思はれた事が二度ある。一度は明治二十七年の癌で、一度は明治三十七年の肺炎だ。私は三十七年の時の肺炎の方を危険と思ひ、半ば遺言のやうなものまでしたほどであつたが、二十七年の癌の時には、私よりも世間が却つて心配したのである。
誰が見ても知れるやうに私の右の頰の唇の辺は妙に凹んでるが、これは明治二十七年に癌を切り取つた痕跡だ。この年には日清戦争が始まつて大本営を広島行在所に置かれ、明治天皇は同地に御駐輦あらせられた。私は別に左したる異状が身体にあるとも思はず、少し口の辺りが変で、悪寒がするぐらゐに思つたのみで推して天機奉伺の為広島に赴いたのだが、帰途汽車中で発熱甚だしく、余りに苦しくなり到底堪へ難く覚えたので、帰京するや否や直に高木兼寛氏の診察を請ふ事にしたのである。然るに高木氏は診察の結果、癌であるとの診断を与え、橋本綱常氏及び帝国大学のスクリツパ教授も亦立会つて診察したが、やはり癌であるとの診断で、高木兼寛、橋本綱常、スクリツパの三氏が立会つて癌腫を切開し、之を切り取つてしまつたのである。幸に予後良好で健康は旧に復したのだが、癌は一度腫物を切り取つてしまつても亦再発するのが殆ど例になつてるさうで、私の如く全く再発せぬのは、稀有の例であると云ふ。
- デジタル版「実験論語処世談」(36) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.256-264
底本の記事タイトル:二六〇 竜門雑誌 第三六一号 大正七年六月 : 実験論語処世談(卅六回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第361号(竜門社, 1918.06)
初出誌:『実業之世界』第15巻第6,7号(実業之世界社, 1918.03.15,04.01)