4. 私の神信心は漠然
わたしのかみしんじんはばくぜん
(36)-4
子之所慎。斎。戦。疾。【述而第七】
(子の慎む所は斎と戦と疾となり。)
茲に掲げた章句は、弟子が孔夫子の平生に就て評したもので、若し論語を編した者が程子の説の如く、有子、曾子の二人であるとすればこれは斯の二人の意見である。若し又物徂徠の説の如く、琴張、原思の二人の手に成つたものだとすれば這の二人の意見であるが、孰れにしても亦誰が観ても孔夫子は其平生に於て、斎即ちモノイミ、戦即ちイクサ、疾即ちヤマヒの三つに対しては大事を取られ、モノイミを仕て意を誠にするに力め、容易に戦を主張せず、大に衛生を重んじて居られたものと思はれる。兎角、自信力の強い英雄豪傑になれば、運命を軽んじ、敵を蔑り、身を軽んずる傾向を生じ、如何に傍若無人に挙動つても自分の力によつて天を制し、敵を制し、疾をも制することのできるやうに思ふ傾きを生ずるものだが、毫も斯る軽率なる考へを起されず、運命を重んじて慎重にモノイミを致されたり、漫りに我が勇に誇つて敵を軽んずる如きことを為さず、細心の注意を以て衛生の道を重んぜられた処に、孔夫子の孔夫子たる偉い点がある。(子の慎む所は斎と戦と疾となり。)
然し私には、什麽したものかモノイミをするといふやうな慣習が無い。又世間の或る人々のやうに、毎朝先祖を祀つてある仏壇の前に跪いて礼拝することも致さなければ、或る特種の神を信心して之を拝むといふが如き事をも私は致さぬのである。畢竟私は百姓の家に生れて幼時よりそんな礼儀作法に馴らされなかつた結果であらうと思ふが、又モノイミをしたり或る特種の神仏を難有がつて之を拝んだりするのは迷信であるといふ事を、幼年の頃から父より説き聞かせられて居つた為であらうと思ふ。さればとて私には敬神尊仏の念が全く皆無かと謂へばさうでも無い。父母の菩提を弔ふ念もあれば、又鎮守を初めとして神社仏閣を尊崇する念もある。要するに私の神や仏に関する観念は頗る漠然たる抽象的のもので、或る人々の懐く観念の如く、人格人性を具へた具体的の神仏と成つて居らず、ただ「天」といふ如き無名のものがあつて、玄妙不可思議なる因果の法則を支配し、之に逆ふ者は亡び、之に順ふ者は栄えると思つてるぐらゐに過ぎぬのである。然し、これが私の信念であるから、前条に申述べたうちにも屡〻御話した如く、「天、徳を予に生ず。桓魋其れ予を如何せん」との確乎動かすべからざる自信を以て世に処し得らるるのだ。
そこに至ると、之までも屡〻談話したことのある白河楽翁公と称せられた松平定信なぞは、私の如き百姓の生れで無く、徳川第十代の将軍家治の甥に当り、立派な武家育ちの御方であらせられる丈けあつて自然日常教育の上から、幼少の頃より人性人格を具ふる具体的の神仏に就ての観念を吹き込まれて居られたものと見え、あれほどの学者でありながら、什麽して那的信仰があつたかと怪まれるほど、迷信的に傾いた観念を持つて居られたもので、幕府の老中に挙げられた際なぞには、前条にも一寸申して置いたことのあるやうに、本所吉祥院の歓喜天へ妻子眷族の生命までも懸けた誓文を奉納せられたといふ事実がある。その外にも猶ほ一つ、楽翁公が斎即ちモノイミを重んじ、神仏に対し如何に敬虔の念を持つて居られたかを知るに足る事実がある。本所吉祥院の歓喜天へ密封を以て納められた心願書は左の通りで、現に楽翁公の後胤たる松平子爵家に所蔵せられて居る。
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- 論語章句
- 【述而第七】 子之所慎、斉・戦・疾。
【述而第七】 子曰、天生徳於予。桓魋其如予何。
- デジタル版「実験論語処世談」(36) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.256-264
底本の記事タイトル:二六〇 竜門雑誌 第三六一号 大正七年六月 : 実験論語処世談(卅六回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第361号(竜門社, 1918.06)
初出誌:『実業之世界』第15巻第6,7号(実業之世界社, 1918.03.15,04.01)