デジタル版「実験論語処世談」(57) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.475-479

顔淵死。顔路請子之車以為之椁。子曰。才不才。亦各言其子也。鯉也死。有棺而無椁。吾不徒行以為之椁。以吾従大夫之後。不可徒行也。【先進第十一】
(顔淵死す、顔路子の車を以て之れが椁を為んと請ふ。子曰く、才も不才も各々其の子と言ふ。鯉や死す。棺有て椁無し。吾れ徒行し以て之が椁と為らず。吾が大夫の後へに従ふを以て徒行すべからざるなり。)
 此の章句は、喪礼は能く其の本分を守り、虚飾に流れぬ様にしなければならぬ事を訓へられたのである。顔淵は前にも屡〻御話をした如く、孔門三千の門弟中最も傑出した人で、最愛の弟子であつたから、孔子は大に其の死を惜み、且つ悲しまれた。「噫天予を喪《ほろぼ》せり、天予を喪せり」と、言はれた程である。処が顔淵の父の顔路が淵の死するや、其の家が貧しくして外棺を買ふ事が出来ぬから、孔子の車を売つて顔淵の為に外棺を買ふ資となさんことを請うた。孔子は之に答へて言ふには、其の才子たると不才子たるとを問はず、何人も各〻吾が子を愛するの情は同じである。顔淵は才子であつて鯉は不才子であるけれども、親として子を愛するの情に於ては変りはない。然るに曩に自分の子の鯉の死んだ時にも、之を葬るに棺のみであつて、外棺を備ふる事が出来なかつたけれども、之れが為めに私の車を売る事はしなかつた。之れは、私は大夫に従ふ時に必ず車に乗る身分で、徒行する事が出来ないからであると、顔路を懇諭せられたのである。
 要するに人間は貧富相当の本分に安んずべきものである。親の情として子の葬儀を立派にしたいと思ふのは無理もない事であるけれども決して適度を越してはならぬ。孔子は此点に於て自ら守ることが正しかつたと共に、門弟其他に対しても深く之を戒められ、其の居常の節度が人情に適し、情に駆られて余り愛し過ぎたり、又悲しみ過ぎたりするやうな事をされず、些末の事にも深く注意を払はれた。されば自分の道徳の後継者とも思うて居つた顔淵の死にあつて非常に愛惜せられたけれども、顔路の請を容れずに之れを懇諭されたのである。場合に依つては、節度を失ふといふ事は愛嬌に見える事もあるが、夫れは決して立派な行為とは言へぬ。孔子は其の一生を通じて喜んで喜び過ぎたり、又悲しみ過ぎて我れを忘れるやうな事はなかつた。能く人臣君子の度合を保たれたのである。
 現代の人々は、概して此の節度を失ひ易い。物事には総て此の節度を忘れてはならぬ。孔子の顔路を諭された教訓は、直ちに現代の人々にも好教訓たるを失はない。
顔淵死。子曰。噫。天喪予。天喪予。【先進第十一】
(顔淵死す。子曰く、噫、天予を喪せり、天予を喪せり。)
 之れは孔子が顔淵の死を悼んで、深く之れを悲しみたまうたのである。
 孔子は最初自分一代に於て世道人心の頽廃を革めたいと予期せられたらうけれども、一時の力ではどうしても出来るものではない。二代三代に亘りて始めて気風が改まるといふのが、国を憂ひ、世を憂ふる人のする事である。孔子後年に至り、我が道は今日に於ては未だ一般に行はれないけれども、幸に顔回が居つて道を伝へたならば、他日行はるる事もあらうと自ら慰めて居られたのであるが、其後継者を以て目せる顔回が、年若うして孔子に先だちて死んだので、孔子は其の道を伝ふ可き者がないと慨かれたのである。孔子の門弟子を愛するの情の深いのを知ると共に、常に其道を世に行ふ事を念とされて居つた事が分る。
顔淵死。子哭之慟。従者曰。子慟矣。曰。有慟干[乎]。非夫人之為慟而誰為。【先進第十一】
(顔淵死す。子之を哭して慟す。従者曰く。子慟せりと。曰く、慟すること有るか、夫《か》の人の為に慟するに非ずして誰が為にせん。)
 顔淵の死んだ時、孔子其の家に往き泣き悲しまれた。従ひ行つた門弟が之れを見て、師は慟せられたと注意したるに、孔子は門弟を顧みて「さうであつたか」と言ひ、更に語を継いで言はれるには「顔回の為めに泣き崩れなかつたならば誰の為めに悲しまんや」と言はれた。蓋し顔回の死は孔子の道を伝ふ可き者を失つたので、深く之れを惜しまれた為めに外ならぬが、之れは取り立てて現代に当て嵌めて申し上げる程の事はない。只、師弟の情愛は現今でもかうありたいものと思ふ。一面から言へば、現代の社会組織、教育組織が全然違つて居るといふ関係もあるが、師弟の情愛は段々薄々しくなつて行くやうに思はれる。敢て絶無とは申さぬが、大体の傾向から言へば此の事実は拒まれぬ事と思ふ。人の師たる者も此点に就ては大に反省すべきではあるまいか。
顔淵死。門人欲厚葬之。子曰。不可。門人厚葬之。子曰。回也視予猶父也。予不得視猶子也。非我也。夫二三子也。【先進第十一】
(顔淵死す。門人厚く之を葬らんと欲す。子曰く、不可なりと。門人厚く之を葬る。子曰く、回や予を視ること猶父の如くす、予視ること猶子の如くすることを得ず。我に非ず、夫の二三子也。)
 顔回が死んだ時、門人等は之を厚く葬らんとして孔子に謀つたので孔子は宜しく分に応じて行ふ可きもので、分に過ぎてはならぬと之を止められた。然るに門人等は之を聴かないで厚く葬つたのである。孔子歎じて言ふには、顔回は平生予を見ること父の如く、自分も亦子の如く思うて居つたのに、予の子供の鯉の葬りの適度であつた如くする事が出来ず、適度を越えて厚きに失したのは遺憾である。然し之れは自分が顔回を子として視なかつた為めでない。門人等が師を思ふの情の厚きに失したるに外ならない。顔回も地下に在つて此の意を諒するであらうと述懐されたのである。
 此の章は、前の二三章を承けたのであつて、其の末の章は聊か愚痴らしく思はれるが、茲が論語の面白い処で、孔子の居常を有りのままに飾らず偽らず述べてある処が、真に価値ある所以である。譬へば甘い物を食へば遂ひ思はず少し食ひ過ぎるとか、不平な時には覚えず愚痴を洩らすとか、面白い本を読んで知らずに時間を過ごすと言ふやうな事はどんな君子にも有り勝な事である。されば論語に対しても非難を言へばないでもないが、孔子の常住坐臥を其のままにうつしたのであるから、非難すべきではないと思ふ。
季路問事鬼神。子曰。未能事人。焉能事鬼。敢問死。曰。未知生。焉知死。【先進第十一】
(季路鬼神に事へん事を問ふ。子曰く。未だ人に事ふること能はず焉ぞ能く鬼に事へんやと。敢て死を問ふ。曰く。未だ生を知らず。焉ぞ死を知らんや。)
 此の章は孔子が季路の問に答へられたものであるが、季路は元来少し突飛な性格を備へた人で、或時には頗る果断な処もあつた。「敝れたる縕袍を衣て、狐貉を衣たる者と立ちて恥ぢざる者は其れ由か」と曾て孔子が季路を褒められた事がある如く、美しい半面を有し、労働的仕事までして身を立てた人で、而かも孔門中の政事学者であつた。現に孔子が「政事には冉有、季路」と謂はれた位であるが、他の半面には血気に任せて事に処する欠点があつて、孔子が「道行はれず、桴に乗つて海に浮ばん。我に従はん者は其れ由か」と言はれた時に、季路が之れを聞いて喜んだので、孔子は更に「由や勇を好むこと我に過ぎたり、材を取る所無し」と誡められた事もある。
 季路はかういふ人であつたから、鬼神、即ち神様に仕ふるにはどうしたら宜しいでせうかと問うた処が、孔子は之に答へて、先づ人間に仕ふる道に完全でなければならぬ。而して後、神に仕ふる道を学ぶ可きである。未だ人に事ふるの道を充分に修めずして、どうして神に事へる道を知る事が出来ようぞと言はれた。季路更に死に処するの道を問うた。孔子言ふには、未だ生存して世に処するの道、即ち君父に事へ、世間の人々に接し、妻子を養ふの道を知らないで、死に処するの道を問ふのは間違つて居ると誡められた。空想に流れず、常に卑近な実行的な事を主として説かれてゐる事が、此の短い章句にもよく知る事が出来る。
 今の青年の全部とは謂はぬが、概して空想的な青年が多い様に思はれる。而して今の空想的青年は一向一身の治まりもなく、而して一国のこと、世界のことを論じ、又一家をさへ治めることが出来ずして、社会政策のことに馳せ廻つてゐる人もある。中には社会政策の為めに奔走努力するといふ本人が、却て社会政策の厄介になつてゐる様な人が沢山居る。現に私の処へも斯の様な人の来訪が尠くない。之は要するに半知半解の西洋の学問に中毒した為めである。一国のこと、世界のことを論ずるもよい、社会政策に奔走するもよい、決して悪いとは言はぬが、先づ一身一家を治むる事が肝要である。一身一家を治むる事が出来ずして、国家社会の為めに尽さんとするのは、本末を顛倒してゐると謂はなければならぬ。若し斯くの如き現状を孔子をして言はしめたならば、果してどう評せられるであらうか、恐らく季路に答へられた以上の訓言が出るであらうと思ふ。
閔子侍側。誾誾如也。子路行行如也。冉有子貢侃侃如也。子楽。如由也不得其死然。【先進第十一】
(閔子側に侍す、誾誾如たり。子路行行如たり。冉有子貢侃侃如たり。子楽しむ。由の如きは其の死の然を得ざらむ。)
 之れは孔子が育英を楽しまるる事を記したものであつて、閔子騫は常に多く物を言はず、又他に仕へる事を望まず、而して清廉潔白な人物であつた。加ふるに徳行に於ても勝れ、顔回の次に数へられた位で孔子の信用も厚く「夫の人言はず、言へば必ず中ること有り」と論語にもある如くである。それで誾誾如たりと言はれた。子路は屡〻述べし如く、義に勇む剛強の性格の人、孔子能く之れを知られて居るから行行如たりと其特徴を挙げられた。冉有、子貢は能く練れた物和らかな人で、是又立派な人物である。
 斯くの如く各〻其の容貌気象は異つて居るけれども、孔子の側に侍する時は、皆英才であつて、之を教ふれば皆進むに足るを見て常に楽しまれたのである。只子路は活気に富み、義に勇み過ぎる嫌ひがあるを以て、孔子は其の剛強の為めに危難に罹りて、天寿を全うする事が出来ないやうな事はないかと心配されたのであるが、果して子路は後年衛国の乱の際、趙の兵に加つて戦死を遂げた。孔子は斯く人を見るの明があつた。此章は別に取り立てて現代に当て嵌める様な事はないが、育英の道に携はる人は玩味すべきである。
魯人為長府。閔子騫曰。仍旧貫。如之何。何必改作。子曰。夫人不言。言必有中。【先進第十一】
(魯人長府を為る。閔子騫曰く。旧貫に仍る、之を如何。何ぞ必ずしも改め作らん。子曰く。夫の人言はず言へば必ず中ること有り。)
 魯の国の官吏が長府といふ貨財を蓄ふる蔵を改め作らうとした事があつた。閔子騫が之れを聞いて、それは御止めになつては如何ですか旧のままで何の差支へもありませんから、別に長府を改作するの必要は無いでせうと言つた。蓋し魯の官吏の長府を改作せんとするのは、聚斂して上を富まさんとするの計があることを推して居つた。それで閔子騫は諷して之れを止めたのである。孔子は後に此事を聞き、彼の閔子は寡言の人にて妄りに物を言はぬが、其の言へる事は必ず道理に当つて居ると言つて之れを称められた。之れが此章の大意である。
 旧幕時代には、代官といふものがあつて、自分の手柄にして栄達を計りたいが為めに、所謂苛斂誅求して領民を苦しむる者が尠くなかつた。領民の苦しさを知らぬ領主は、或は手腕家として悦ぶかも知れぬが、之が為めに領民は主をも恨むに至り、惹いては領主の徳をも傷くるに至るのである。現今では時勢も変り、法令も行き渡り、万々斯かる事の有る可き筈はないが、然し之れに似たやうな事はありはしないか。私は斯く斯くの事実があるとは指摘しませぬが、去りとて全然無いと言ふ事は出来ぬだらうと思ひます。
子曰。由之瑟。奚為於丘之門。門人不敬子路。子曰。由也。升堂矣未入於室也。【先進第十一】
(子曰く、由の瑟、奚ぞ丘の門に於てせん。門人子路を敬せず、子曰く、由や堂に升れり。未だ室に入らざる也。)
 此章は孔子が能く人の長所短所を見分けて短所を護らず、長所を掩はず、之れを導かれた事を説いたのである。瑟といふのは楽器(二十五絃琴)の名であるが、孔子は由(子路のこと)の人となりが剛強であるから其の気が自ら声音に発し、瑟を鼓するに北鄙殺伐の声があつて中和を得ないから、之を抑へて中和に進ましめようとして、嘗て子路を警めてお前の瑟は殺伐の気があつて、私の学問の中和を主とするに適して居らぬ。されば吾が門下に於てなすあるの材でないと言はれた。然るに門人等は此の言を聞いて、子路は孔子に斥けられたと思ひ子路を敬はぬやうになつたので、孔子は更に諸門弟に諭して、子路の学問は之れを譬ふれば既に表座敷に上つて居るのであるが、未だ奥座敷に至らぬまでの事である。即ち夙に正大公明の域に至つて居るけれども、唯だ深く精微の奥に入らぬのみである。であるから子路の学は固より尊敬しなければならぬ。決して軽んじてはならないと言はれたのである。孔子の人を論ずるのは極めて公平であつた事を知るに足るであらう。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.475-479
底本の記事タイトル:三三四 竜門雑誌 第四〇九号 大正一一年六月 : 実験論語処世談(第五十五《(七)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第409号(竜門社, 1922.06)
初出誌:『実業之世界』第18巻第11,12号(実業之世界社, 1921.11,12)