デジタル版「実験論語処世談」(43) / 渋沢栄一

6. 私は義太夫を語れる

わたしはぎだゆうをかたれる

(43)-6

 私はこれでも音楽は少し解る方だ。芸者の唄つてるものを聴いても直ぐ拙いか巧いかの見当はつく。若い時分には芸者から教へられて少しは自分で唄ひもしたもので、義太夫、長唄、常盤津、清元、一中節ぐらひの別は知つてるのだ。就中、義太夫の方ならば之に就ての話もできれば、又少し自分で演れもする。身を入れて稽古に勉強したら一段ぐらゐは語れぬでも無からうと思ふ。私が斯く義太夫に趣味を持ち義太夫を多少理解し、少しぐらゐは語るといふほどに成つてるのは、郷里の血洗島と申す地方が、大層義太夫の流行る土地で、亡父も大変義太夫を好き、田舎義太夫ではあるが兎に角相当に語れたもんだから慰みに其処此処と語つて歩いたりなんかしたので、自然幼少の頃より其の感化を受けた結果である。
 今の帝国劇場を創立するのに私が多少骨を折るやうに成つたのは、私が多少芸事を解るからでもあるが、その趣意とする処は帝国ホテルを設立するに尽力したのと同一で、外国貴賓の来朝せられた際にその観覧を仰ぐべき演芸の場所が無いから、之に利用し得らるる建物を一つ設けて置きたいと思つたのと、又一には、之によつて演劇改良の道を講じたいと思つたからだ。素と演劇改良論は風俗改良会から起つたもので、福地桜痴なぞが切りに之を唱道し、当時福地は私に勧め「自分は技芸方面を担当するから、渋沢は経営やら事務の方を受け持つてくれ」と云ふ事であつたのである。私はそれも可からうといふので、その気に成つてるうち、福地は自分で歌舞伎座なんかに関係し、俳優や興行師とも密接の間柄となり、全く芝居道の人に成つてしまつたのである。それでは、演劇改良事業に福地を親しく関係さしては却て面白く無いからとの事で、この事業も、一時沙汰止みに成つてしまつたのだ。
 然るに、福沢諭吉氏が其の発頭人に成つたわけでもあるまいが、福沢捨次郎氏其他、慶応義塾出身の人々が意見を纏めて、明治三十九年頃、伊藤公の許へ押しかけて行き、是非演劇改良の事業に力を添へてくれよと相談を持ちかけたのである。その結果、築地の瓢家で会合し色々と話を進めたのだが、会合の当日私は折悪しく箱根に行つて出席しかねたもんだから、その罰だといふので、席上委員を選んだ際に私は委員長を仰せ付けられたのである。東京に帰つて伊藤公より斯の趣を聞知し、是非それを受諾せねばならぬ事になつたので、帝国劇場の設立に力を尽すに至り、資本金を百万円として始めたのだが、最初はオペラ懸つたものを上演する予定であつたにも拘らず、それでは迚も経営ができかねるからといふので、西野恵之助氏が最初の専務取締役となつて諸事を切り廻し、結局今日の如き状態に落着いたのである。幸に昨今では帝国劇場も経営上に左までの困難を感ぜぬやうに成つたから誠に仕合せに思つてるが、外部の形式だけは進歩しても内容の進歩之に伴はず、予期の如く之によつて演劇改良の実を挙げ得ぬ憾みが無いでも無い。然し、多少なりとも設備其他に於て、帝劇が日本の演劇改良に貢献したところはあらうと思ふのだ。

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キーワード
渋沢栄一, 義太夫, 語る
デジタル版「実験論語処世談」(43) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.333-339
底本の記事タイトル:二八一 竜門雑誌 第三六九号 大正八年二月 : 実験論語処世談(第四十三回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第369号(竜門社, 1919.02)
初出誌:『実業之世界』第16巻第2号(実業之世界社, 1919.02)