4. 水戸会津にも人物あり
みとあいづにもじんぶつあり
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私は従来も申述べ置ける如く、平岡円四郎の推薦により同姓喜作と共に元治元年二月、一橋慶喜公へ仕へる身分になつたのであるが、幕府に於ては、同年三月に至り、外国の侵略に備へ、皇室の御安泰を計る趣意から、一橋慶喜公を禁裡御守衛総督に任命することになつたのだ。その結果私も慶喜公に従ひ京都に於て諸藩の志士と交際することになり、殊に当時蛤御門の守衛に当つてた会津藩の名士とは能く交際する機会を得たので、充分知つてるが、会津にも却〻その頃は人傑の多かつたものである。外島機兵衛、野村作兵衛、手代木直右衛門、秋月悌次郎、広沢富次郎などが其れで、孰れも立派な人物であつた。中にも秋月、広沢の両人は余程の学者で、尊敬すべき人物であつたのである。会津人は水戸人と違つて相当に団結力もあつたのだが、薩長の如く維新前後に勢力を張り活躍し得なかつたのは、必ずしも人物に乏しかつたからでは無い。維新前の大勢が倒幕に傾いて居つたにも拘らずこの大勢に逆行し、佐幕党になつたからである。之に反し、薩長は倒幕の大勢を利用し、之に乗つて活動したもんだから順風に帆を揚げたのも同じで、頗る順調に其の勢力を発展し得られたのだ。
兎角旧幕人は、江戸ツ子気質とでもいふべきだらうか、人間の柄が皆サッパリして居つて、同党伐異の気風が無いのである。どちらかと謂へばいづれも無慾恬淡で、ネバリツ気が無い。それが為開国の是非なぞに就ては幕府側の者に薩長人よりも遥に先見の明があつたにも拘らず、却つて維新後になつてからまでも薩長人に敗けてしまはねばならぬ事になつたのである。
- デジタル版「実験論語処世談」(43) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.333-339
底本の記事タイトル:二八一 竜門雑誌 第三六九号 大正八年二月 : 実験論語処世談(第四十三回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第369号(竜門社, 1919.02)
初出誌:『実業之世界』第16巻第2号(実業之世界社, 1919.02)