2. 善意に解して受流す
ぜんいにかいしてうけながす
(43)-2
世の中のウソには善いと悪いとの二タ通りあつて、孔夫子が司敗の問に応じて与へられた答弁の如きウソは、素と主君を保護せんとする精神から出た善い種類のウソであるから、斯んな善い種類のウソなばら[ならば]、いくら吐いても拘はぬといふ如き論を立つれば、大変に世間の人を過る恐れがある。ウソには善いウソも悪いウソも無く、ウソは総て皆悪いものだとして置くべきだ。ウソは如何なる種類のものでも、之を吐くのは絶対に悪い事である。孔夫子が司敗の問ひに対せられた場合なぞにも、決してウソを以て答弁をせられたのでは無い。ただ「直き」を以て答へられたまでだ。それから又、司敗が孔夫子を一つ試験してみようとか、困らしてやらうとかと、悪意を以て孔夫子に対したる際、孔夫子は之を善意に解釈して、毫も司敗を罵るとか責めるとかいふ事をなされず、自分の欠点を見つけ出して忠告してくれるとは難有いと、何気なく軽く受け流してしまはれた処にも、孔夫子の偉大なところがある。如何に孔夫子をやり込めてやらうと赤身を張つて向つてきても、斯う軽く善意に解釈して受け流されてしまへば、到底太刀打のできぬやうになつてしまふものだ。この点は御互に大に学んで然るべき事だらうと思ふ。
- デジタル版「実験論語処世談」(43) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.333-339
底本の記事タイトル:二八一 竜門雑誌 第三六九号 大正八年二月 : 実験論語処世談(第四十三回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第369号(竜門社, 1919.02)
初出誌:『実業之世界』第16巻第2号(実業之世界社, 1919.02)