1. 自己即ち是れ神仏
じこすなわちこれしんぶつ
(44)-1
子疾病。子路請禱。子曰。有諸。子路対曰。有之。誄曰。禱爾于上下神祇。子曰。丘之禱久矣。【述而第七】
(子の疾、病なり。子路禱らんことを請ふ。子曰く、諸れ有りや。子路対へて曰く、之れ有り。誄に曰く、爾を上下の神祇に禱ると。子曰く、丘の禱るや久し。)
孔夫子の御病気が御危篤に瀕せられた際、御弟子の子路は如何にもして孔夫子の御病気を恢復させたいと云ふ一念から、御病気御平癒の祈禱をさしては下さるまいかと、孔夫子に御願ひ申上げたのだ。孔夫子は心窃に爾んな事の無益であるのを知つて居られたが、弟子が折角親切に申してくれるのを無碍にも御断り難くかつたと見え、病気平癒の祈禱をするのは、果して道に適つたものか何うかと反問せられたのである。よつて子路は、古い弔詞即ち誄にある語を引用して病気の平癒を天神地祇に禱るのは、昔より能くある例で御座ると答へたので、孔夫子は「今更病気が危篤になつたからとて俄に禱るにも及ぶまい、自分は常平生絶えず天神地祇に禱つてたのだ」と仰せられたといふのが、茲に掲げた章句の意味である。(子の疾、病なり。子路禱らんことを請ふ。子曰く、諸れ有りや。子路対へて曰く、之れ有り。誄に曰く、爾を上下の神祇に禱ると。子曰く、丘の禱るや久し。)
禅宗の僧侶なぞは日常是れ坐禅であるといふ事を、能く教へる由に聞及んでるが、平素勝手気儘な真似ばかりして暮らし居りながら、病気が危篤に成つてから、如何に神仏へ禱つてみたところで神仏が其の祈願を聞届けて下さらう筈は無いのだ。人間の一生と申すものは言々句々是れ祈禱であり、坐作進退日々是れ坐禅であらねばならぬのが法だ。祈禱とは他無し、天道に合し人道を履んで行く事である。是れが又坐禅でもあるのだ。この意味に於て孔夫子は日々天道に合する事のみを言ひ、且つ行つて居つたから、特に音声を揚げて「助け給へ救ひ給へ」と禱ら無くつても、「丘の禱るや久し」と謂ひ得られたのである。されば論語八佾篇に於ても「罪を天に獲れば禱る所無し」と孔夫子は仰せられて居るのだ。日々の坐臥言行が天道に反き、人道に悖るやうでは、決して天助を蒙るわけに行くもので無い。依つて私は「丘の禱るや久し」の句を「天地に俯仰するも自ら省みて疚しく無い」といふ意味に解釈したいのである。
一体、神仏が人格人性を備へて宇宙の何処にか御座ます如くに稽へるのが間違つてるやうに私には思はれてならぬのだ。私は神も仏も皆自分のうちに在るもので、自分が神であり仏であると思ふのである。仏教にいふ即身即仏だ。森村市左衛門氏なぞは昨今基督教を信奉し、自分以外に人格、人性を備へた神の実在を認め、之に祈禱もせらるるまでになつてるらしいが、この点に就て私は森村氏と意見を異にするのである。森村氏もまだ洗礼を受けぬので普通の基督教信者とは稍〻その趣を異にし、別派のクリスチャンたるの観はあるが、神の実在を篤く信じて居らるるのは事実だ。
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- 自己, 神, 仏
- 論語章句
- 【述而第七】 子疾病。子路請禱。子曰、有諸。子路対曰、有之。誄曰、禱爾于上下神祇。子曰、丘之禱久矣。
- デジタル版「実験論語処世談」(44) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.340-345
底本の記事タイトル:二八三 竜門雑誌 第三七〇号 大正八年三月 : 実験論語処世談(第四十四回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第370号(竜門社, 1919.03)
初出誌:『実業之世界』第16巻第3号(実業之世界社, 1919.03)