デジタル版「実験論語処世談」(44) / 渋沢栄一

3. 禹は倹約家の好標本

うはけんやくかのこうひょうほん

(44)-3

子曰。奢則不孫。倹則固。与其不孫也。寧固。【述而第七】
(子曰く、奢れば則ち不遜なり。倹なれば即ち固なり。其の不遜ならんよりは、寧ろ固なれ。)
 茲に掲げた章句の意味は、兎角奢れば贅沢に流れて傲慢不遜に陥り易く、世間より反感を以て迎へらるるに至るものだが、さればとて極端に倹約を旨とするやうでも、往々にして固陋に陥り、野卑なシミツタレになり下り、世間の指弾を受くる如き場合が出来てくる。然し孰れかと謂へば、驕奢に流れて不遜に陥るよりは、倹に走つて固陋の譏を受くる方がマシだといふにある。
 孔夫子は、是れまでも屡〻申述べ置ける如く、極端に走る事を甚く忌み嫌はれ、前条にも雍也篇に於ては「質、文に勝てば則ち野。文、質に勝てば則ち史。文質彬々、然して後に君子なり」と仰せられて居るのだが、茲に掲げた章句の「奢れば則ち不孫なり。倹なれば則ち固なり」も、意の在るところは「文質彬々」の章句と毫も異る無く、偏に極端に走るを戒められ、余り贅沢に成つても宜しからぬが、余り倹約に走つても面白からぬ故、人は其の中庸を得ねばならぬものである事を教へられたのだ。ところが実際に臨めば、斯く贅沢に流れず吝嗇にもなるまいとするのは、頗る至難のことであるのを孔夫子も充分承知して居られたので、贅沢に成るよりは寧ろケチになつた方がマシだぞと仰せられたのである。
 贅沢とは一体何ういふものかと申せば、無益な事に浪費をするのが其れで、吝嗇とは支出すべき処にも吝んで支出せぬのが其れだ。無益な事には一切浪費せず、支出すべき処には欣然として支出するのが是れ奢にも流れず倹の弊にも陥らぬ中庸の道である。然し前条にも何時か申述べたことのあるやうに、倹約と吝嗇とは之を区別するのが却〻至難しいのである。伝へらるる所によれば、舜に用ひられて治水開拓の事業を大成し、後舜が崩じてから代つて位に即いた禹は、頗る倹素な人であつたさうだ。「史記」の「夏本紀」には禹の事を叙して「衣食を菲くし孝を鬼神に致し、宮室を卑くして費を溝淢に致し、……食を少く調へて余りあれば相給し、以て諸侯に均す」とあり、孔夫子も亦論語泰伯篇に於て、甚く禹の倹素であつたのを称揚せられ「禹は吾れ間然するところ無し、飲食を菲くして、孝を鬼神に致し、衣服を悪くして美を黻冕に致し、宮室を卑くして、力を溝洫に尽す。禹は吾れ間然するところ無し」と仰せられて居るほどだ。斯く禹の如く衣食住の無益な費用を省いて、之を殖産興業及び人情の美を発揚するために費すのが、真の倹約と申すものである。私は及ばず乍ら、衣食住の為にはでき得る限り倹約し、余りあれば公益の為に費すやうにと心懸けて居る積りだ。

全文ページで読む

デジタル版「実験論語処世談」(44) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.340-345
底本の記事タイトル:二八三 竜門雑誌 第三七〇号 大正八年三月 : 実験論語処世談(第四十四回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第370号(竜門社, 1919.03)
初出誌:『実業之世界』第16巻第3号(実業之世界社, 1919.03)