デジタル版「実験論語処世談」(44) / 渋沢栄一

6. 綿密と粗忽は知れる

めんみつとそこつはしれる

(44)-6

 父は、平沢左内の即易見料は銀一分である事をかねがね聞き知つてたものだから、平沢の許へ斎藤と伴れ立つて運勢を見てもらひに出かける前に、予め銀一分をチヤンと紙に包んで之を懐中に入れて行つたのであるが、同行の斎藤の方はそんな準備も何も致さずに出かけたもんだから、愈よ一礼して見料を払ふ段に成り、父は懐中より予て用意の一封を取り出して、恭しく鄭重に差出せるに反し、斎藤は「見料は御いくらですか」なぞと問ひ訊し、それから俄に懐中を探るやら、袂を探すやらして漸く紙に銀一分を包んで差出し、その挙動が如何にも粗忽で、軽率らしく滑稽に見えてあつたとの事である。平沢左内は父と斎藤とが謝儀を差出した時の具合を窃に見て居つて、両人の挙動やら前後の模様より判断し、父は注意綿密であるから成功するが、斎藤は軽率であるから運勢が面白く無いと申聞かせたものらしい。父は斯の一事を例に引いて、易者なんかといふものも却〻眼の行き届いたもので、かく一寸した事から人の性質を判断したりなんかするもの故、馬鹿にならぬと私に話したことがある。
 誠に面白い逸話だと思つたので、今日でも猶ほ忘れずに覚えてゐるのだが、佐藤一斎が初見の時に人に相すれば大抵誤まりの無いものであると説いてるのも、それから孔夫子が「君子は坦にして蕩々たり、小人は長に戚々たり」と仰せに成つたのも、結局その帰する所は一で善い人間か悪い人間か、君子か小人かといふことぐらゐは、一度遇つて少し談話でもして見れば、何んとなく直ぐ其れと直覚し得らるるものだ。

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デジタル版「実験論語処世談」(44) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.340-345
底本の記事タイトル:二八三 竜門雑誌 第三七〇号 大正八年三月 : 実験論語処世談(第四十四回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第370号(竜門社, 1919.03)
初出誌:『実業之世界』第16巻第3号(実業之世界社, 1919.03)