デジタル版「実験論語処世談」(47) / 渋沢栄一

3. [森村翁の死と末期の言葉]

もりむらおうのしとまつごのことば

(47)-3

曾子有疾。孟敬子問之。曾子言曰。鳥之将死。其鳴也哀。人之将死。其言也善。君子所貴乎道者三。動容貌。斯遠暴慢矣。正顔色。斯近信矣。出辞気。斯遠鄙倍矣。籩豆之事。則有司存。【泰伯第八】
(曾子疾有り、孟敬子之を問ふ。曾子言て曰く、鳥の将に死せんとする、其の鳴くや哀し。人の将に死せんとする、其言ふや善し。君子の道に貴ぶ所の者三つ、容貌を動かして斯に暴慢を遠ざく。顔色を正うして斯に信を近づく。辞気を出して斯に鄙倍を遠ざく。籩豆の事は、則ち有司存す。)
 此章は前の章と同じく、曾子が病床に於ける折の言葉であつて、孟敬子と云ふ人の問ひに答へて言つたものである。恐らく之れは曾子の末期の言葉であつたらうと思ふ。
 籩豆と云ふのは祭式の道具の一種であつて、多く祭式の飾りとして用ひられるものである。此籩豆の事に就ては、夫々役人が在つて夫々受持ちで処理して行くから、上に位する所の君子が、是に就て何う斯うする必要はない。君子は君子として守るべき道が有るから、夫れを良く守らねばならぬ。道とは、容貌を動かして暴慢を遠ざけ、顔色を正しくして信に近づき、辞気を出して鄙倍を遠ざくと云ふ三つの道であると云うて、孟敬子の如く、多数人民の上に立つものを戒めたのである。
 鳥の将に死せんとする其鳴くや哀し、人の将に死せんとする其言ふや善しと云ふのは、人も鳥も愈々死んで行くと云ふ場合には其の真情を吐くものであると云うたのである。で曾子が孟敬子を戒めるに当つて、自分の語る言葉が末期の言葉で、充分真情を吐露するものである事を先づ知らせ、斯くの如き真情を吐露して談るものであるから、充分心して守らねばならぬと云ふことを説かれたのである。
 是に就ても深く感ずるのは、最近に於ける森村翁の死去である。私は親戚と云ふ関係でも何でも無いのであるが、四五回程お見舞に行つた。最も重病の事とて面接して話すと云ふ訳にも行かぬから病床に通つたのは其中一回丈けで、後は只病状を伺つて帰るのみであつた。
 何しろ胃の幽門部に可成り大きい癌腫が出来て、悉り食道を絶つて了つたのであるから、長い間に亘つて全く絶食であつた。で翁も死は免かれぬと決心して居られたことと思ふ。
 翁は以前から熱心な基督教信者であつて、確固たる信心に従容として死に就かれたのである。其病床に於ける一回の会見に於て翁の曰く「世の中のことは凡て神の命に従つて行ひさへすれば差支へはない。今世の中が甚だ憂ふべき状態に陥つて居るとき死することは甚だ残念であるが、私は軈て神の側に行かねばならぬ。で残る君は大いに世の為に力を尽して貰ひたい」と、大体さう云ふやうな意味の言葉であつた。之れに対して「私一人貴方に代つて力を尽すと云うても到底及ばぬことであるが、出来る丈けの力は少しも惜まぬ。然も人の体は死しても精神は消えるものではない。此意味に於て貴方も私も、永遠に世の為に尽すことが出来ると思ふ。充分安心して御養生しなさい」と大略さう云ふやうなお答へをして退いたのである。
 然も其後日ならず遂に死去されたことは実に残念の事であるが、翁の此末期の言葉は誠に日頃高潔な翁の真情を吐露されたものであつて深く感ずるのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(47) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.366-370
底本の記事タイトル:二九七 竜門雑誌 第三七八号 大正八年一一月 : 実験論語処世談(第四十七回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第378号(竜門社, 1919.11)
初出誌:『実業之世界』第16巻第10号(実業之世界社, 1919.10)