デジタル版「実験論語処世談」(48) / 渋沢栄一

1. 自我のみ主張してはならぬ

じがのみしゅちょうしてはならぬ

(48)-1

曾子曰。以能問於不能。以多問於寡。有若無。実若虚。犯而不校。昔者吾友。嘗従事於斯矣。【泰伯第八】
(曾子曰く、能を以て不能に問ひ、多を以て寡に問ひ、有れども無きが如く、実つれども虚きが如く、犯さるるものは校らず。昔者吾が友、嘗て事に斯に従へり。)
 此句の眼目とする所は、束の間も怠る事なく修養に修養を積んで己れの徳を全うしようと云ふ所に在る。そこで、己れには既に材芸有り見聞も充分であるにも拘らず、恰も夫等が少しも無いかの如く、非常に謙譲な心持ちを以て、他の己れよりも材芸、見聞の少い人に向つて色々と問を発して、己れの修養を積み、徳を全うして、己れの使命を尽さうとするのである。徳と云ふものは無限に広大なものであつて、生の有る限り間断無く努力するに非ざれば、より完全に尽すことは出来ぬ。
 昔者吾が友嘗て事に斯に従へり、と云ふ吾が友に就て「友は顔淵を謂ふ」と馬融が云うて居るが、或は然うであるかも知れぬ。然し夫れは何れにしても、何しろ孔門には七十二人と云ふ多数の傑出した門人が有つたのであるから、其内には左様な人は居たに違ひない。又之れを曾子自身と見ても差支無からう。曾子自身が斯くの如き態度を以て修養を努めたのを、謙譲して吾が友としたのだとすれば一層意味の深いものがある。
 曾子が吾が友と云うたのは誰であらうとも、兎に角斯様にして道徳を積んで行くと云ふことは非常に尊敬すべきことで、若し誰もがそう云ふ謙遜な態度を以て修養し、世に接して行くと云ふことになれば、人を恨んだり人から恨まれたりする事は無くなつて了ふ。世の中と云ふものは誠に円満に治つて来るのである。
 又、この謙譲の態度を以て常に修養を怠らぬことは、論語の学而第一に「曾子曰く、吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交りて信ならざるか。習はざるを伝へしか」と云ふ句が在るが、其内によく言ひ現はされて居る。之れ等の句は何れもよく東洋道徳の真髄を表したものであつて、私共も常に信奉して誤りの無いやうに努めて居る所である。斯く修養を積むと云ふことは己れの為であつて、充分己れの修養が出来、徳が整うて来なければ、人と接して調和を取ることも六ケ敷、到底世間の秩序と云ふものは円満に保てるものではない。
 今日私共が斯う云ふ風に東洋道徳を主張すると、何だか古風な時代遅れのやうに思ふ人が有るやうであるが、それは甚だ軽率な見解であつて、若し今日のやうに単に自分さへよければ宜しい、他のものは何んなに難渋しても構はぬと云ふならば、只強い者勝ちと云ふことになつて、其結果は非常に怖るべきことであると思ふ。固より各自が其個性の拡充を主張することは少しも非難すべきことは無い。然し世の中と云ふものは、己れ独りで以て出来て居るものではない。非常に多数の人の集りで出来て居るのである。されば其多数の人が調和を計る為には、そこに是非とも責任や犠牲の観念がなければならぬ。所謂東洋道徳の孝弟忠信がなければならぬ。
 何うも西洋の新らしい思想は之れ等の観念を非常に軽く見る傾向が有るやうである。然し西洋には、其半面に於て宗教心の可成りに強いものが有るからして、左程怖るるには足らぬとして、日本の如きは何等纏つた宗教心と云ふものが一般に備はつても居ないのに、只自己を主張する思想の盛になつて来ると云ふことは、誠に恐るべきことと言はねばならぬ。之れでは今後世の中が何う怖るべき結果を齎らすか知れぬ。そこで私共は之れを非常に憂へて、ちつとでも此東洋道徳の真髄を発揮したいと希つて居るのであるが、此句の如きは東洋道徳の真髄とも言ふ可き謙譲、敬虔の感念を最もよく表したものである。

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デジタル版「実験論語処世談」(48) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.372-376
底本の記事タイトル:二九九 竜門雑誌 第三七九号 大正八年一二月 : 実験論語処世談(四十八回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第379号(竜門社, 1919.12)*回次表記:(四十七回)
初出誌:『実業之世界』第16巻第11号(実業之世界社, 1919.11)