デジタル版「実験論語処世談」(48) / 渋沢栄一

2. 民部大輔と共に仏国留学

みんぶたゆうとともにふつこくりゅうがく

(48)-2

曾子曰。可以託六尺之孤。可以寄百里之命。臨大節而不可奪也。君子人与。君子人也。【泰伯第八】
(曾子曰く、以て六尺の孤を託す可く、以て百里の命を寄す可し。大節に臨みて奪ふ可からざるなり。君子人か、君子人なり。)
 此の句は次の句と共に論語の中に於ても非常に有名な句で、読んで誠に気持ちの良い句である。私共若い時分よりして之れ等の句は常に暗誦したものである。六尺の孤と云ふのは、父の無い幼君のことで、此幼君を託しても、何等心配なく輔佐の任を尽し、百里の命と云ふのは古百里を以て公侯の国と為せしより一国の政令と言ふことで、此一国の政令を託しても、何等の心配なく其任を完うして行く、斯くの如きは容易に尋常の人の為し能はざる所であつて、誠に才の備はつた人と云ふことが出来る。又、大節に臨みて奪ふ可からずとは、国家の安危に関はると云ふやうな大事の場合に出会つて、一身一家のことを忘れ、何等の遅疑する所なく、其難に殉ずると云ふが如きを云ふのであつて非常に節操の堅い人でなければ中々出来難いことである。
 斯くて以上の才と節操とを兼ね備へて居れば、之れ充分君子人と云ふことが出来る。そして最後に君子人与と疑を起し、之れに答へて、君子人也と云つたのは文意を非常に強めたものであつて、さうだ慥かに君子人であると云つたものである。
 此句を読んで思ひ出すことは、清水民部大輔に随つて私が二十八の時、慶応三年正月横浜を出発し仏蘭西に留学した当時のことである。私のことを云ふのは僣越のやうでもあるが、当時実際此句に依つて非常に感激され、事毎に非常な影響を受けたのが事実であるからお話することになる。
 其頃はもう幕府の前途も六ケ敷と云ふ時で、今迄幕府の家臣であつたものは誰も彼も一種悲痛な気分に掩はれて居た。恰も此の幕府の前途の困難なる時に当つて、私共の今迄仕へて居た慶喜公が、一橋家を去つて将軍となられると云ふことになり、私共は非常に心配したのである。何故なれば、斯うした場合であるから、政府側からは国賊のやうに云はれ、幕府方からは亡国の君と云はれることは到底免れぬことである。寧ろ将軍職につかれるよりも、一橋家に居られた方が何れ丈け無難であるか知れぬ。
 と斯う思うた私共は、是非ともお諫めしたいと思ふことは屡〻あつたが、既に一橋家を去られた後のことであつて、今迄のやうに容易にお目に懸ることも出来ず、又私自身二君に仕へると言ふことは、甚だ心よからぬことで、殆んど嘆息の余り昔の浪人にでもならうかと思ふに至つたのである。丁度其時民部大輔が仏蘭西にお出でになるにつき私も共をして行けと云ふ命が出たのである。
 私は夫れ迄と言ふものは攘夷論者であつたが、然し四囲の状勢からして、何時迄も鎖国主義を採つて居ることの不可能を知り、機会があらば西洋の事情も知りたいと思ふやうになつて居たからして、遂に意を決してお供をすることになつたのである。
 其時である。固より私よりも立派の人が多数お供して行かれるのであるから、私一人でもつて当時十四歳であつた民部大輔をお世話すると言ふ訳には行かなかつたが、此以て六尺の孤を託す可く、以て百里の命を寄す可しと云ふ句を暗誦して、いざと云ふ場合には私一人で充分何事もお世話し奉らうと云ふ意気込みであつた。然し今も云ふ通り私は其頃まだ小役人に過ぎぬので、荷物の世話をするとか、手紙のことを取扱ふと云ふ丈けで有つた。
 然るに彼地に着いてから幾何も無く日本には愈〻大変動が行はれ、殆ど凡ての人が呼び返されると云ふことになつたので、期せずして私一人が民部大輔の百事のお世話をすると云ふことになつたのである。斯に於て私は恰も六尺の孤を託されたやうな気分で、其命を全うすることに努めたのである。
 私が初め出発に際しては、少くとも五ケ年位は彼地に留つて大いに勉学するつもりであつたが、国元に於ける幕府の変動からして費用も途絶え、実家の方から取り寄せようとして居ると、遂に帰国せよとの命があつたものであるから、初志を果たさずして僅か一年余りで帰国したのであるが、民部大輔の百事のお世話をするに当つて、真に私の心を緊張せしめたものは、東洋道徳の真髄を最も良く云ひ現はした此句であつた。で今でも、此句を聞いたり思ひ出す度に、其当時のことが直ぐ聯想されて、一種悲壮な気分になるのである。

全文ページで読む

デジタル版「実験論語処世談」(48) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.372-376
底本の記事タイトル:二九九 竜門雑誌 第三七九号 大正八年一二月 : 実験論語処世談(四十八回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第379号(竜門社, 1919.12)*回次表記:(四十七回)
初出誌:『実業之世界』第16巻第11号(実業之世界社, 1919.11)