デジタル版「実験論語処世談」(7) / 渋沢栄一

8. 孝子らしからぬ孝子

こうしらしからぬこうし

(7)-8

 漸々にして孝子の家を尋ね当て、其家の敷居を跨いだのは正午過であつたが、家の中には唯一人の老母が在る丈けで実に寥しいものである。「御子息は」と尋ねると「山に仕事に行つてるから」との事に、近江の孝子は委細来意を留守居の老母まで申述べると「夕刻には必ず帰らうから、兎に角上つて御待ち下さるやうに」と勧められたので、遠慮なく座敷に上つて待つてると、果して夕暮方に至れば、信濃の孝子だと評判の高い息子殿が、山で刈つた薪を一杯背負うて帰つて来られた。そこで、近江の孝子はこゝぞ参考の為に大に見て置くべき所だらうと心得て奥の室から様子を窺つてると、信濃の孝子は薪を背負つたまゝで縁に瞠乎と腰を掛け、荷物が重くつて仕様が無いから手伝つて下して呉れろと、老母に手伝はして居る模様である。近江の孝子は先づ意外の感に打たれて猶窺つてるとも知らず、今度は足が汚れて居るから浄水を持つて来て呉れの、やア足を拭うて呉れのと、様々勝手な註文ばかりを老母にする。然るに老母は如何にも悦ばしさうに嬉々として信濃の孝子が言ふまゝに能く忰の世話をして行るので、近江の孝子は誠に不思議な事もあればあるものと驚ているうちに、信濃の孝子は足も綺麗になつて炉辺に坐つたが、今度は又有らうことか有るまいことか足を伸して、大分疲れたから揉んで呉れと老母に頼むらしい模様である。それでも老母は嫌な顔一つせずに揉んでやつてる中に、はるばる近江からの御来客があつて奥の一間に通してある由を忰に談ると、そんならば御逢ひしようとて座を起ち、近江の孝子が待つてる室にノコノコやつて来た。

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孝子
デジタル版「実験論語処世談」(7) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.685-690
底本の記事タイトル:二〇〇 竜門雑誌 第三三一号 大正四年一二月 : 実験論語処世談(七) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第331号(竜門社, 1915.12)
初出誌:『実業之世界』第12巻第17号(実業之世界社, 1915.09.01)