デジタル版「実験論語処世談」(38) / 渋沢栄一

3. 私の少時の思想過らず

わたしのしょうじのしそうあやまらず

(38)-3

 私は今日まで欧洲の文明は単に物質的のもので無く、その根底には堅実なる宗教信念もあり、又哲学もあるものだと思ひ、我国の文明が近来物質的にばかり流れ、精神的方面を疎かにし、利己一天張となる傾向あるを慨し、維新前仏国に留学し欧洲諸国の事情を知つて帰朝してからは、主として物質文明の興隆に及ばずながら力を注ぎ、金融に運輸に商工業に、国家の経済的発展を計らんとして努力し来れるにも拘らず、昨今は寧ろ精神的方面に意を傾け、之が為奔走するまでに致して居るほどである。然るに何ぞや、如何に基督教の権威が落ちた今日でも、斯くまで非人道になつては居まいと信じて居つた欧洲諸国が今度の戦争で其地金を露はすに至つたとでも謂はうか、弱肉強食の暴虐を到る処に演じ、曾て一たびは宗教改革の急先鋒たるマルチン・ルーテルを出した独逸が「国の為」といふ得手勝手な口実の下に侵略政策の張本となり、四隣を蚕食して財物を掠め、火を放ち、人を殺し、他国の生民を塗炭の苦に陥らしめて恬然恥る処無きのみか寧ろ之を誇とする如き始末だ。
 若し基督教家の説く如く、天に慈悲慈愛の神があるとしたら、その神は欧洲の今日が修羅の巷と化し去つたのを見て、果して如何に感ぜらるるか、それとも人心を支配する全智全能の神の力は、今日に至つて全く喪失せられてしまつたものか、甚だ以て疑無き能はずである。この点に関し欧米宗教家の見解は何んなであらうか、之を知りたいものであると、私はベリー氏に問うて見たのである。今を去る六十有余年前、嘉永安政の頃、孔孟の道徳説で固めあげられて居つた私がかの「清英近世談」を読んで悲憤慷慨し、西洋人を仁義を弁へぬ弱肉強食飽く無き虎狼の民なりとのみ一図に思ひ込み、こんな国民と交易なんかしては日本の一大事であるからと、鎖港説を主張したのも、欧洲の惨憺たる現状に照らして見れば、強ち間違つて居つたのでも無いらしく、私が洋行して彼の諸国の実際を見るに及び、欧洲には進歩せる物質文明の半面に又宗教的の崇高なる精神文明があるものだと思つて帰朝したのが、却て謬見であつたかの如くに思はれぬでも無く、昨是今非の感無き能はずである。
 欧洲の戦争とても、早晩止んで平和の克復を見るに相違無いが、欧洲の民心が今日の如き調子で弱肉強食を是れ事とするやうでは、各国の軍国主義は戦後も依然として改まらず、互に財力兵力をのみ競つて宗教の威力も、道徳の権威も、行はるるに至らぬだらうと思ふのである。之に関する欧米宗教家の意見は果して何んなものだらうか、斯う私は又重ねてベリー氏に尋ねて見たのである。

全文ページで読む

キーワード
渋沢栄一, 少時, 思想
デジタル版「実験論語処世談」(38) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.284-290
底本の記事タイトル:二六九 竜門雑誌 第三六四号 大正七年九月 : 実験論語処世談(第卅八回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第364号(竜門社, 1918.09)
初出誌:『実業之世界』第15巻第10,12号(実業之世界社, 1918.05.15,06.15)