デジタル版「実験論語処世談」(51) / 渋沢栄一

3. 日本若し危邦となるも去らず

にほんもしきほうとなるもさらず

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 次に「危邦には入らず、乱邦には居らず。天下道有れば即ち見はれ道なければ則ち隠る」といふのは、人の去就について採るべき態度を明かにされたものであるが、これ等字義から見ると、周の封建時代には難なく適用できるのであるが、我が国の如きに向つては俄にその儘当て嵌めるといふ訳には行かぬかも知れぬ。
 危邦といふのは将に乱れ亡びんとする国であつて、そのやうな国には足を踏入れるなといはれるのであるが、日本等に於て国民たるものは、国家が危くなつたからといつて足を入れないで逃げ出す等といふことは到底有り得べからざること、又、許すべからざることである。若し不幸にして国家の危急存亡にでも関するといふやうな時でもあつたならば、それこそ一命を賭してもその回復再生に努めねばならぬ。これは字義通りその儘では一寸日本に応用でき兼ねるのである。然し恐らく孔子の意志はそこには有るまいと思ふ。同じ論語の中に子路の問に答へて、「今の成人とは、何ぞ必ずしも然らん。利を見て義を思ひ危きを見て命を授け」と孔子が言はれて居る。これに依つて見れば、既に自身の仕へて居る国が危くなつた時には、一命をも授けるのが即ち成人であり、君子であるといつて居られるのである。日本が危くなつたからといつて、亜米利加に籍を移す等といふことは、断じて許すことができぬのである。
 然しこれは孔子が、人といふことに重きを置かれて言はれた言葉であつて、周のやうに封建時代には止むを得ぬことである。互に諸侯が覇を唱へんとして居る時で、真に安んじて一命を托し兼ねるといふ時勢であつて見れば、先づ成る可く危きに近づかないで己れの身を全うすることが君子としては正しい道であるとしたのである。然し我が国に於てはそんな消極的のことは許されぬ。若し危邦乱邦であつたならば、自ら陣頭に馬を進めて国家の改造善導に努めねばならぬ。そこで私の考へとしては、一歩を進めて積極的に常に国家の為に努め、危邦たることから避けしめねばならぬとするのである。
 天下道有れば則ち見はれ、道無ければ則ち隠る、とは上に述べた如く危邦乱邦があつて何処でも見はれるといふ訳には行かぬが、天下は広いもので、若し何れか道が具つて居る国があれば宜しく行つて天下に見はれるがよいといはれたのである。然し何程乱邦であり危邦であつたにしても、その人が真に賢者であり偉人であつたならば、その人自身が見はれまいとしても必らず世間一般の尊敬が向けられ、知らず識らずの中に天下に名を為し見はれて来るのであつて、孔子自身が其通りである。孔子自身は乱邦であれば、格別自ら求めて見はれようとされた訳でもないが、自然と周囲のもの、後世のものが、賢者として崇敬の念を払ひ、何時とはなしに見はれて了はれたのである。
 が然し孔子の如きは特に優れた人であつたから勢ひさうであつたのであるが、それ迄に行かぬ人は乱邦に居ても他から自然と見はして呉れるといふ訳には行かず、さういふ時に臨めば却てその身を傷けるやうになるから、本当に道があればこれに依つて名を為すもよいが、道の行はれぬ所には行かないで、寧ろ隠れてその身を全うするに如ずかと戒められたのである。徒らに危きに近づいて遂にその身をも亡し、然も何等世の中に貢献する所もないといふのは、如何にも君子たるものの恥とせなければならぬ所である。今日の世の中には之れと等しいことはよくあることで、孔子のこの戒めは今も昔も応用できるのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(51) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.395-400
底本の記事タイトル:三〇五 竜門雑誌 第三八三号 大正九年四月 : 実験論語処世談(第五十《(五十一)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第383号(竜門社, 1920.04)
初出誌:『実業之世界』第17巻第3号(実業之世界社, 1920.03)