デジタル版「実験論語処世談」[33a](補遺) / 渋沢栄一

2. 孔子の政治的手腕

こうしのせいじてきしゅわん

[33a]-2

 其後、魯の定公は大に孔夫子を用ひんとする意を起し、初めは孔夫子を中都の宰に任じ、その成績が挙つて四方之に則るを見るや、遂に大司冠の職に昇ぼせたのである。為に、大宰相にまではならなかったが、定公の十四年、五十六歳の頃には、それまで不遇であった孔夫子も「史記世家」に「相事を摂行す」とあるから、摂相とならるゝまでに至つた事は明かだ。魯が孔夫子を用ひて、大に其の国威を発揚しかけて来るのを知つた隣国の斉では、之れに対し甚しく危惧の念を催し、斉王景公より魯王定公に驩交を申込んで来たのである。然るに、この申込に対し、魯の定公は平然車に乗つて出で、斉王と夾谷と申す場所に会見を遂げやうとせられたのだが、孔夫子は之を諫め「文事ある者は必ず武備あり」と説き、諸侯の国境外に出づるや古来より儀仗を具へて出遊するのが例であるからとて、近衛の士を従へて会見の場所に赴かしめ之によつて益々魯の国威を発揚したのみならず、又魯の太夫のうちにあつて国政を乱つた少政卯なるものを誅し、為に「史記世家」に「三月魯国大に治る」の句あるまでに至らしめたところなぞは、明に孔夫子が政治家として、又事業家として凡ならざる手腕のあつた事を談るものだ。
 然し、魯王も遂に永く孔夫子を用ひる能はず、魯王と孔夫子との間に感情の衝突を来すに至りでもしたものか、斉から女の楽人を送つてきたのを機とし、孔夫子は憤然として魯を去つてしまはれ爾後仕ふるに足る明君に回り遇はず、僅に「春秋」を編し、之によつて「天下の乱臣賊子懼る」の精神上の権威を有せらるゝものとなり、自ら安んずるに至られたのであるが、政治の実際に活躍せんとして居られた時代には、自ら周の武王に対する周公を以つて深く任じて居られた事とて寤寐の間にも周公を忘れられなかつたものと想はれる。
 然し、孔夫子が茲に掲げた章句に於て、「久しい哉、吾れ復た夢に周公を見ざることや」と曰はれて居るのは必ずしも「是れまでは随分屡々周公の夢を見たが、昨今は夢を見ぬやうになつてしまつた」といふ意味を談られたもので無く、夢を仮りて御自分の感慨を漏され、其の真意は時世の日々に益々非にして、自ら周公を以て任じ大に国政に貢献するところあらんとする孔夫子を、天下の王たるもの侯公たる者が、棄てて顧みぬのを諷されたものであるかも知れぬのだ。

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デジタル版「実験論語処世談」[33a](補遺) / 渋沢栄一
底本:『実業之世界』第15巻第1号(実業之世界社, 1918.01.01)p.104-106
底本の記事タイトル:実験論語処世談 第六十二回 孔子の政治的手腕 / 男爵渋沢栄一