デジタル版「実験論語処世談」[33a](補遺) / 渋沢栄一

4. 完全なる人物は何か

かんぜんなるじんぶつはなにか

[33a]-4

子曰。志於道。拠於徳。依於仁。游於芸。【述而第七】
(子曰く、道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に游ぶ)
 茲に掲げた章句は、人が完全なる人物にならうとするには如何なる修養を致せば宜しいか、之を説かれたものである。完全なる人物にならうとすれば、まず第一に道に志さねばならぬものだ。道とは人たるものゝ当然履むべき人道のことで、人道を履んで世渡りを致さうといふ気が無いやうでは、迚ても完全なる人物には成り得ぬものだ。「世説」といふ書に載せらるゝ晋王猛の如き「桓温の関に入るを聞くや偈を被り之に謁し、虱を捫り当世の務を談じ旁ら人無きが若し」とあるが、斯く人間の道を履まうといふ気の無いものは、到底完全な人物に成れぬものである。
 次に徳に拠つて世に処さねばならぬのだが、徳とは韓退之の「原道」にある如く、己れに足つて外に待つ無き事で、自ら疚しい処が無く、外に利を求めて他へ害を及ぼす如き憂ひの無いやうにする心情である。仁とは之れも「原道」にある如く、博く愛する事で、単に自ら足るを知つて他へ迷惑を懸けぬのみならず、他へ利益幸福を頒ち与へやうとする心情である。この心情が無ければ、人は到底、完全な人物であるとは謂へぬのだ。
 人には単に志のあるのみでは、如何に其志が人道を履まうとする立派なものであっても、人の人たる効果を挙げ得ぬ事になる。人に行があつて初じめて其人の価値が顕るゝのだ。徳と仁とは其根底を人の心情に置くに相違ないが、直に行為となつて顕はるゝものだ。故に、完全なる人物とならうとするには、道に志すと共に、徳に拠り仁に依らねばならぬのであるが、それ丈けでは人物が堅苦るしい窮屈なものになつてしまうから、茲に芸に游んで多少の余裕を拵へて置くことが必要になるのだ。(青柳生憶記)

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デジタル版「実験論語処世談」[33a](補遺) / 渋沢栄一
底本:『実業之世界』第15巻第1号(実業之世界社, 1918.01.01)p.104-106
底本の記事タイトル:実験論語処世談 第六十二回 孔子の政治的手腕 / 男爵渋沢栄一