デジタル版「実験論語処世談」(33) / 渋沢栄一

2. 玉乃氏突然の来訪

たまのしとつぜんのらいほう

(33)-2

 官を辞して第一国立銀行を設立してからのことで、確か明治七年頃であつたやうに記憶するが、その頃私は未だ今日の如く事務所といふものを持たぬ為、第一銀行の裏に当る三井家の敷地内に一軒の家を構へ、之を事務所とも邸宅ともして住つてた時である――永く遇はなかつた玉乃氏がヒヨツコリ突然私を訪ねて来られた。何の用で来られたものかと訊くと、「実は今日、貴公へ自分の不明を陳謝する為態〻出かけて来たのだ」と申されたのである。玉乃氏が私の許へ態〻謝りに来らるるとは何事だか知らんが、其れは兎に角面白い次第だから委細承らうと私が申せば、玉乃氏は空相場の許否に関する渋沢の意見が正しい事を今になつて覚り、禁止せずに許可する方が良いといふ意見に自分(玉乃氏)もなつたから、是れまで自分が渋沢の意見に反対した不明を陳謝するといふにあつたのだ。
 依つて私は、玉乃氏が如何して従来の意見を一変するまでになられたかに就ての径路を問ひ訊すと、その頃新たに仏蘭西より法律顧問に招聘せられ、我が政府の御雇となり来朝したボアソナードに説破された為であつたのだ。ボアソナードが玉乃氏に説いて聞かせた処は――放火、殺人、窃盗等は不法行為であるから契約物件となり得らるるもので無い。それから、空気の売買契約の如き事も、空気は普遍的のもので、誰でも任意に之を領有し得らるるから契約物件として取扱ひ得らるるもので無い。然し、延取引即ち空相場は、如何に現在持つて居らぬ否な現在に於ては之を買ひ集めて売る資力の無い者がした売米の契約でも、将又引取るだけの資力に乏しい者がした買米の契約でも、何時なんどき其の契約者が其の契約を実行し得らるる実力のある者とならぬとも限らず、兎に角世の中に在るものを契約物件として契約するのであるから、決して禁止すべき性質のもので無く、サイコロを転がして丁半の出かた如何によつて勝負を決する賭博とは全く其の根本の性質を異にする一種の契約であるから、延取引としての空相場は許可して然るべきものであるといふ事であつたのださうだ。
 玉乃氏も初めのうちはボアソナードの斯の意見に服する事が出来ず何でも三回ほど議論を戦はしたとの事であるが、遂に三回目に至り法理上の議論でボアソナードに破られ、その意見に服するやうになつたから、ボアソナードの意見に服するのも左る事ながら、初め自分(玉乃)に反対して議論した渋沢へもその旨を申入れ、従来の不明を陳謝して置くのが順当であらうと考へられ、態〻同氏は私を訪れられたのであつた。玉乃氏の如きはこの一事に徴しても、全く義を聞けば直ぐ徙り、不善と知れば直に改むる性質の人であつたと謂ひ得らるるだらう。

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玉乃世履, 突然, 訪ふ
デジタル版「実験論語処世談」(33) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.235-239
底本の記事タイトル:二五五 竜門雑誌 第三五八号 大正七年三月 : 実験論語処世談(卅三回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第358号(竜門社, 1918.03)
初出誌:『実業之世界』第14巻第24号(実業之世界社, 1917.12.15)