デジタル版「実験論語処世談」(33) / 渋沢栄一

3. 秀吉には義心無きか

ひでよしにはぎしんなきか

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 太閤秀吉は義を聞いても徙らず、不善と知つても改めぬといふ如き迷蒙の人では決して無かつたのである。然し、元来が難儀して育つた人で、若い時分に道徳上の修養鍛錬を積んで来て居らなかつたから、まだ元気の潑溂たるうちは頗る進むに便利な人物に出来上つて居り、為に進む事にかけては頗る成功もしたのだが、若い時にあつた元気が衰へ、進み得られぬ時代になつてからは、道徳上の修養鍛錬を経て来て居らぬ弱点が漸次に暴露されて来るやうになり、これまでも屡々申述べて置いた通り、晩年に至り甚だ振はず、石田三成あたりに嗾かされて糟糠の臣を棄て、誠忠無二の加藤清正を遠ざけたりするまでになつたのである。猶子秀次をして高野で自殺を余儀なくせしめた事なぞも、全く秀吉が若い時分に道徳上の修養訓練を積んで来て居らなかつた結果である。
 秀吉の考へた如く、秀次には天下を取らうなぞといふ気は露些かも無かつたのである。然し兎に角秀次は関白職にあつたものだから、関白としての尊厳と勢力とを維持して行きたいとの気があつたのであるが、秀吉には秀次の斯の心を察せず、当然関白たる秀次に帰すべき筈の勢力をも自分に帰せしむるやうにして居つたので、秀次は之を不快に感じ、関白職に当然帰すべき権力だけは之を秀吉に行かぬやうにし自分の手に掌握する法を講じたのである。之が秀吉からは、秀次が不軌を謀つて謀反でもするかのやうに見えたので、遂に高野山に逃れた秀次を無理攻めにして自殺するに至らしめしのみならず、秀次の子女妻妾三十四人を斬に処し、近臣へも夫々切腹を命ずるに至つたのだ。実に残酷この上無き致方であると謂はねばならぬ。それから、死に臨んで、徳川家康に後事の全権を委託せるが如く又委託せざるが如くにした事なぞも、一に秀吉が若い時から道徳上の修養鍛錬を積んで来て居らなかつた結果で、老境に入つて元気が衰へ進む事ができ無くなると共に、元来が鍛へて無い心だから、四方八方に亀裂が出来るやうになつたのである。そこに至ると、流石に徳川家康は豪いもので、平素より道徳上の修養鍛錬を積む事に努力して居つたから、秀吉の如く晩年に至つてボロを暴露するやうな不体裁を演ぜずに立派に瞑目し、徳川十五代の天下を将来し得たのである。

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キーワード
豊臣秀吉, 義心,
デジタル版「実験論語処世談」(33) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.235-239
底本の記事タイトル:二五五 竜門雑誌 第三五八号 大正七年三月 : 実験論語処世談(卅三回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第358号(竜門社, 1918.03)
初出誌:『実業之世界』第14巻第24号(実業之世界社, 1917.12.15)