デジタル版「実験論語処世談」(32) / 渋沢栄一

5. 戦国になるのは当然

せんごくになるのはとうぜん

(32)-5

 頼朝の歿後、源氏は甚だ振は無くなつてしまつた。恰も藤原氏が朝廷より御委任になつた政権を運用する便宜上、兵馬の権を源平両氏に任せ、両氏を統治の道具に使つたのが禍ひを成して、藤原氏に人物が無くなると共に、遂に源平両氏を統率し得られなくなり、勝手放題の我儘をされるやうになつてしまひ、その極、朝廷より御委任を受けた政権を、まづ平氏に奪はれ、それが次いで源氏の手に渡るに至つたのと殆ど同じやうな径路で、頼朝が総追捕使の命を拝するや、其初め統治上の便を得るため道具に使つた北条氏によつて、源氏は頼朝の手で朝廷より御委任を受けた統治の政権を、奪ひ去らるるやうになつてしまつたのである。庇を貸して母屋を取らるるとは之れの事だ。然し、当時、政子に引続き泰時、時頼、時宗等の人傑偉才が北条氏に現れたものだから、斯くなるのは寧ろ当然の順序であると謂はねばならぬのだ。ところが、北条氏も高時に及んで暴逆その度を過ぎ、海内到る処に怨嗟の声を聞くに至り、迚も北条氏の力を以てしては国内を治め得られ無くなつてしまつたのである。
 時の後醍醐天皇は天資御英邁に渡らせ給うたので、政権を斯く北条氏に委任して置いては下万民の苦しみ如何ばかりならんかと叡慮を悩まさせられ、御親政を思ひ立たせられたのだ。之が所謂建武中興である。然るに、又当時の朝廷には大権運用の任に当る偉大なる人物が無かつたものだから、足利尊氏といふ怪傑が現れて、頼朝の遺業を継ぎ天下の一統を志し、茲に南北朝の両立を見るに至つたのであるが、兎に角、尊氏は北朝の朝廷より将軍の宣下を受け、天下に号令する事になつたものだ。然し、南朝の遺臣に猶ほ相当の人物があつたのと、弟直義との間に不和があつたりなどしたのとで、尊氏の存生中には迚も国内一統の素志を達し得られなかつたのである。ところが、足利三代の義満が却〻の人傑で、之を輔佐するに細川頼之の如き文武兼備の人才があつたものだから、久しく両立した南北朝も相合して一となり、後小松天皇が人皇第百一代として御即位あらせらるる事になつたのである。そのうち又義満の心が余りに驕り朝憲を紊すまでに至つたので足利氏も義満以後漸次に其声望を失墜し、義政に及んで殊に甚しく、遂に応仁の乱となり、その結果朝廷には、兵馬の実力無く、足利氏も亦国内を統率し得られず、幕府は名ばかりで其実無きに至り、統治の中心を失つたやうな形に陥つてしまつたので、茲に群雄割拠の戦国時代が現出せられたのである。

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戦国, 当然
デジタル版「実験論語処世談」(32) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.223-233
底本の記事タイトル:二五二 竜門雑誌 第三五七号 大正七年二月 : 実験論語処世談(第卅二回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第357号(竜門社, 1918.02)
初出誌:『実業之世界』第14巻第20-22号(実業之世界社, 1917.10.15,11.01,11.15)