デジタル版「実験論語処世談」(32) / 渋沢栄一

6. 英雄に国家観念無し

えいゆうにこっかかんねんなし

(32)-6

 戦国時代の群雄には素より国家の観念無く、又随つて国家の元首たる朝廷を尊崇する考えなども無かつたものだ。この間に於て多少なりとも朝廷を尊崇する気のあつたのは、唯僅かに一の毛利元就ぐらゐのものだらう。元就は私に兵の動かすべからざるを知り、周防の大内氏のため義によつて陶晴賢を討たんとするに当つても、特に朝廷より陶氏討伐の綸旨を請ひ受け、それから初めて兵を挙げたほどだ。その他の豪傑たちに至つては、まだ国家の成立しなかつた野蛮時代に於ける酋長と毫も択む処無く、武田信玄にしても上杉謙信にしても、共に非凡の豪傑英雄であつたには相違無いが、徒に私の争ひを事としたもので、恰も野蛮時代の酋長等が互に他の酋に攻め寄せて之を侵略し、各自の領有地を拡めようとした如く、自分の封土を少しでも拡くすることにのみ熱中し、眼中に日本も無ければ国家も無く、ただ他を倒すのみ急であつたものだ。これでは何時まで経つても国内が静謐に帰しよう筈が無い、蒼生は戦禍によつて塗炭の苦に泣かねばならぬばかりであつた。
 早くも此の弊を看破したのが織田信長である。流石に信長で、信長は私の争を棄て、国内を一統するのが何よりの大事であることに気付き、それには皇室中心の国体を飽くまで維持し、声望の既に地に墜ちて了つた足利幕府を再興し、之に朝廷より御委任になつてる政権を自分が実際に当つて運用し、之によつて兵馬を動かし天下に号令しようとの大志を起し、足利十三代将軍義輝の弑せらるるや、その弟の義昭を奉じて入洛し、十四代将軍の義栄が在職一年にして薨ずるに及び、義昭に十五代将軍の宣下を奏請し、足利義昭をチヤンとした征夷大将軍に押し立てて天下に臨まうとしたのである。信長に国家観念のあつた事は義昭の非曲を諫むるために上つた十七箇条封事の第一に「国家の治道何としてか永く、人道は何としてか古に立ちかへり、朴には成り候ふべしと、昼夜嘆き可思召候、他意おはしまさば果して不可有冥加事」とあるによつて之を知り得られる。
 然し、義昭は信長の諫を用ひず、信長の声望を羨み再度まで兵を挙げたので、信長は遂に止む無く義昭を亡し、足利幕府の跡を絶つてしまつたが、勢ひの帰する処、信長は足利氏に代つて天下に号令するに至つたのである。それにしても信長一人で天下をマトメるわけにもゆかぬので、一方に於て三河の家康と結び、又他の一方に於て秀吉を抜擢して重用し、その昔藤原氏が源平両氏を道具に使つて政権の運用を計つた如くに、家康、秀吉の両人を左右に使つて国内を統一しようとしたのである。それにつけても、皇室を中心にせねばならぬと考へたので、信長は禁闕を修理し、供御田を奉り、詔を重んじ、勤王の実意を表したものだ。
 然るに、突如として明智光秀が反いて信長を本能寺に弑したものだから、この時に当つて大に活躍の機会を得たのが秀吉である。秀吉は却〻奇抜な才のある人だつたので、直に信長の弔合戦を営み自ら天下を統一しようとしたのだが、柴田勝家等が秀吉に対して先づ反旗を翻した。秀吉は素より斯くあるべしと予期して居つたこと故、些かも驚く色無く、柴田を越前に破り、却て之を天下一統の第一階段にしたのである。

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キーワード
英雄, 国家, 観念
デジタル版「実験論語処世談」(32) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.223-233
底本の記事タイトル:二五二 竜門雑誌 第三五七号 大正七年二月 : 実験論語処世談(第卅二回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第357号(竜門社, 1918.02)
初出誌:『実業之世界』第14巻第20-22号(実業之世界社, 1917.10.15,11.01,11.15)