デジタル版「実験論語処世談」(32) / 渋沢栄一

7. 家康征夷大将軍となる

いえやすせいいたいしょうぐんとなる

(32)-7

 秀吉が天下を一統しようとするに当つて眼の上の瘤になつたものは家康である。家康に首を振られては如何ともする能はざる事になる。既に家康は信長の次子信雄に頼まれて小牧山に拠つて秀吉に対抗したほどである。依て家康を手に入れてしまはねば、如何に柴田勝家の輩を亡ぼしてしまつたところで、秀吉は天下を一統し得らるるもので無いから、家康を手に入れる為には、流石の秀吉も凡ゆる手段を講じたものだ。之が為、秀吉は母を人質として三河に送るやら、それから家康が其妻たる今川義元の養女築山御前を離縁した跡へ、前条に談話したうちにもある如く、既に佐治氏との間に婚約のあつた自分の妹を佐治氏との約を破つて家康に娶はし、其妻たらしむるまでの事をさへしたのである。但し、この築山御前といふ女は医師減慶と姦通し不軌を謀るなど不貞の女であつたから、家康として之を離縁したのは無理からぬことだ。
 斯くして秀吉は家康を手に入れて、愈よ天下を一統するを得るに至り、征夷大将軍の職を拝し、政令兵馬の権を朝廷より委任せられ、天下に号令したのであるが、秀吉は信長にも増して国家観念強く、皇室を国家の中心として尊崇し、朝廷に代つて国家を統治しようと思ひ、勤王の志厚く、朝廷に対しては能く勤めたものである。
 然るに、秀吉の歿後、大阪方には大勢を視るに疎き暗愚の人々多く其等の輩が勢力を揮ひ、豊臣氏は到底朝廷より御委任の政権を運用してゆけ無くなつたので、本当の順序から謂へば、一旦朝廷へ政権を奉還すべきであるのだが、当時朝廷にも亦人物が無かつた所より、家康が止む無く御委任を継承し、自ら征夷大将軍の職を拝し、家康以後十五代、徳川氏が政令兵馬の権を握つて天下に号令するに至つたのである。然し、秀吉が歿してから豊臣氏に人物無く、朝廷より御委任になつてた政権を運用し得られなくなり、一時政権が宙に迷はうとした当時、若し朝廷に人物があつたとすれば、家康の考へも恐らく之に影響せられ、征夷大将軍の職を拝するに至るまでの径路に多少の変化があり、或は政権を豊臣氏の亡ぶると共に朝廷へ奉還するやうな運びにしたかも知れぬのである。

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キーワード
徳川家康, 征夷大将軍
デジタル版「実験論語処世談」(32) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.223-233
底本の記事タイトル:二五二 竜門雑誌 第三五七号 大正七年二月 : 実験論語処世談(第卅二回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第357号(竜門社, 1918.02)
初出誌:『実業之世界』第14巻第20-22号(実業之世界社, 1917.10.15,11.01,11.15)