デジタル版「実験論語処世談」[52a](補遺) / 渋沢栄一

3. 挙世滔々として功利に奔る

きょせいとうとうとしてこうりにはしる

[52a]-3

 言ふ迄もなく多能の人と聖人とは全然区別さる可きものである。仏教で言へば、其の徳に依つて如来、菩薩といふ様な階級的尊号がある如く、吾々人間の間にも其の智徳の如何によつて智者、仁者、聖人の区別がある。而して聖人は其の人格に於て欠点なきのみならず、政治上なり、教育上なり、将た哲学上なりに就て社会の為めに貢献する処ある人でなければならぬ。孔子は、聖といふ事に就ては余程高い処に其の標準を置いて、如何なる人に対しても、容易に之れを許すことが無かつたが、夫れ丈け自ら持するにも能く法に適ひ、勗めずして克く道にかなつて居つた。
 之を今の時代に比較すると、其間文物制度が異つて居り、時勢が非常に違つて居るから、直ちに取つて以て今の時代に当て嵌めて説き明かすことは難かしいが、要するに人格が高潔にして徳も高く、而かも達識の人を指して之を聖人と称へる事が出来よう。然し今の世に果して聖人に比すべき人が居るであらうか。挙世滔々として功利に奔り、道徳は漸次頽れんとして居る傾向のあるのは、実に遺憾千万の事と言はねばならぬ。

全文ページで読む

キーワード
挙世, 滔々, 功利, 奔る
デジタル版「実験論語処世談」[52a](補遺) / 渋沢栄一
底本(初出誌):『実業之世界』第17巻第12号(実業之世界社, 1920.12)p.98-101
底本の記事タイトル:第九十二回実験論語処世談 / 子爵渋沢栄一
*「渋沢子爵談片」はp.101に別枠のコラムとして掲載されたもの。