デジタル版「実験論語処世談」(19) / 渋沢栄一

4. 下問を恥ぢて向上す

かもんをはじてこうじょうす

(19)-4

 木戸公にして初めて下問を恥ぢぬやうになられたほどで、伊藤公なぞには兎てもできなかつたのに徴してみても、下問を恥ぢぬやうになるといふ事は君子にして漸くでき得ることで、凡夫の難しとする処である事が知れる。私なども至つて薄徳の者であるから、兎角下問を恥ぢるやうな傾があつて困る。他人に何か言はれでもすれば「なアに爾んな事は知つて居る」と謂ひたいやうな気が何時でも致すのである。
 然し又、一方から観察すれば、下問を恥ぢる傾向が人にある事は、其の人を向上させる為の動機にもなるもので、あながち一概に賤むべきでも無い。他人に下つて、自分の知らぬ点を問ひ質すやうなことになりたく無い、彼是れと他人の進言を待たねばならぬやうな身に成りたく無いと思へば、勢ひ什麽しても、自分で学に励み身を修め、智慮を周到にし智識を複雑にして、何んでも知つて居らぬといふ事は無く自分の身に非難の星を打たれる事の無いやうになつて居らねばなら無くなる。この意味に於て下問を恥辱とする精神は、人をして向上せしむる動機になるのである。されば、苟も自分に下問を恥辱とするぐらゐの精神あらば、自ら大に努め大に修養するところが無くつてはならぬものである。下問を恥ぢて而も自ら修養を怠るやうでは、その人たるや到底向上発展の見込が無いものである。
支那の人では、茲に掲げた章句の中に挙げられてある孔文子は素より申すに及ばず、漢の高祖、蜀の玄徳などが、下問を恥としなかつた人人である。下つて宋の太祖なぞも亦、下問を恥ぢ無かつた人である。宋の太祖の時代に、趙普といふ殊に論語に造詣の深い論語学者があつた。この人は、徳も却々高かつた人で、太祖は屡々駕を趙普の許に枉げ、親しく論語の教を受け、遂に趙普を挙げて同平章事とし、国事に関しては万端趙普に下問を垂れて決せられるやうになつたとの事である。そこで趙普は、その学び得て置いた論語の半分を以て先づ自分の心を磨き身を修め、残る半分を提げて太祖の帝業を助成したと伝へられる。この事は確か十八史略などにも載せられてあるやうに記憶するが、私は官途を退いて実業に従事するやうになつた際には、及ばずながら斯の趙普の心を以て心とし、学び得たる論語の半分を以て身を修め、半分を以て銀行業を営まうと決心をしたものである。

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下問, , 向上
デジタル版「実験論語処世談」(19) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.118-124
底本の記事タイトル:二二七 竜門雑誌 第三四三号 大正五年一二月 : 実験論語処世談(一九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第343号(竜門社, 1916.12)
初出誌:『実業之世界』第13巻第21,22号(実業之世界社, 1916.10.15,11.01)