デジタル版「実験論語処世談」(19) / 渋沢栄一

6. 家康と金地院崇伝

いえやすとこんちいんすうでん

(19)-6

 家康は天海僧正に下問を惜まなかつたのみならず、京都南禅寺の長老で金地院の住職であつた崇伝禅師などの言にも能く耳を傾け、その進言を容れ、常に崇伝を陣中に召し伴れられたものである。味方原の役に敵兵が家康の本営を襲うた際に、家康の左右に侍する士、甚だ少かつたが刀を揮つて敵の首を斬り、家康の身の上に別条無きを得せしめたものは実に斯の崇伝である。慶長十六年墨西哥よりの使者が来朝し通商を求めた際なぞにも之を如何にすべきかを、家康は崇伝に諮つて後に決したものであると伝へられる。
 それから彼の豊臣家滅亡の端を開いた大仏開眼供養の鐘銘問題などに関しても、家康が断乎として彼の如き措置に出で、当日に至り京都所司代をして挙式を停止せしめたのは、崇伝の進意に因る所が頗る多かつたとのことである。秀頼は太閤の遺志を継ぎ、方広寺を造営し、慶長十九年落慶式を挙げることになつたのであるが、同時に巨鐘をも鋳造して、落慶式と共に其撞き初めを行ふことになつて居つたのである。ところがその鐘銘には「国家安康」の四字があつたので、この文字は「家康」を呪ふ為に鋳たものであるとの議論が崇伝及び天海などの間に起り、殊に崇伝は、この意見を固く執つて家康に進言する所があつたものだから、片桐且元が如何に弁疎しても家康は遂に聴き入れず、一旦京都所司代をして停止せしめた落慶式は飽くまでも禁止し、その結果遂に大阪冬の御陣にまでもなつたのである。家康が如何に崇伝を重んじ、之に傾聴するところがあつたかは斯の一事によつても頗る明かである。

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キーワード
徳川家康, 金地院, 崇伝
デジタル版「実験論語処世談」(19) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.118-124
底本の記事タイトル:二二七 竜門雑誌 第三四三号 大正五年一二月 : 実験論語処世談(一九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第343号(竜門社, 1916.12)
初出誌:『実業之世界』第13巻第21,22号(実業之世界社, 1916.10.15,11.01)